「少女遊星」・五
作者:ススキドミノ


瀬名 雪乃(せな ゆきの):19歳。西東京芸術学園。美術学部2年。油絵専攻。
白沢 律(しらさわ りつ):20歳。西東京芸術学園。音楽学部、ピアノ科2年。
晴海 万智(はるみ まち):20歳。西東京芸術学園。音楽学部、ピアノ科2年。
園部 愛香(そのべ まなか):21歳。西東京芸術学園。音楽学部、声楽科3年。



※2018年1月18日 台本使用規約改定(必読)




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 ◆





律N:静寂。
   天を仰ぎ、ゆっくりと目を開ける。
   目に飛び込んでくる光……ボクとピアノを照らす光。
   心を広げていく。広がっていく意識が、空間へ溶けていく。
   そして聞こえてくる。たくさんの人間の息遣い。衣擦れや、靴が擦れる囁き。
   カラン、と甲高い音が鳴る。
   視線を向けると、指揮棒を持ったマルコ・リーが、口元に笑みを浮かべていた。
   世界的なマエストロだっていうのに、まるで子供みたいだ。
   その眼が言ってる。
   『音楽の歓びだ、律』
   ああ。あなたのその指揮棒で……ボクの手を引いて連れて行こうっていうんだね。
   でもね、マルコ。ボクはもう、迷子はお終いにしたんだ。
   音楽なら、知ってる。
   手を伸ばせば届く? 大丈夫、届く。
   このコンサートホールの隅から隅まで、ボクの手は届く。


律:(深呼吸)……うん、今行くよ。


律N:第一楽章、ハ短調、二分の二拍子。
   ここは教会で、ボクは鐘撞き。
   マルコが振り上げた指揮棒が目指すのは、ボクのピアノの向こう側。
   今だ――鐘を鳴らせ。


 <ラフマニノフ・ピアノ協奏曲・第二番>
 <律は第一楽章を弾き始める>


 ◆


 <雪乃は部屋の窓から空を眺めて呟く>

雪乃:(つぶやき)……本日の気温は晴れ。予想最高気温は三十度、湿度は三十六パーセント。
   カラッとした暑さとなるでしょう。

 <手で円を作ると、空を覗き込む>

雪乃:空の色は、鮮やかなフェルメールブルーに見えるでしょう……なんて……。

 <万智は慌ただしく雪乃の部屋に入ってくる>

万智:雪乃ッ!

雪乃:万智さん?

 <万智は雪乃に歩み寄ると、肩を掴む>

万智:……もう見た!?

雪乃:え? な、何を?

万智:それ! ジョークで言ってるのよね!?
   マジだったら引っ叩く!

雪乃:え、あ……。

 <雪乃は一瞬考え込んで、手を叩く>

雪乃:あー!

 <万智は雪乃の頬をつまむ>

万智:あーじゃないぃ!

雪乃:(頬をつままれながら)い、いたい……!

万智:なんで当事者よりも私の方が気にしてるのよ……!

雪乃:ごめんなさい……! 時間までは覚えてなかったです……!

万智:タブレットは!?

雪乃:ノートパソコンがそこに……!

万智:ほら、隣座る!

雪乃:……はい。

 <万智と雪乃は並んで座ると、ノートパソコンを開く>

万智:発表って、ホームページから?

雪乃:はい。

万智:オッケー……発表予定が十五時で、今は……。

雪乃:あ。発表ページのリンク、もうありますよ。

万智:よ、よし! じゃあ、自分でクリックしてよ。

雪乃:わ、私がですか……?

万智:あああ当たり前でしょ……!
   私は緊張で無理……! 絶対……!

雪乃:(深呼吸)……押します……!

 <雪乃はクリックする>
 <万智は顔を覆っている>

万智:ど、どう……?

 間

万智:雪乃……?

雪乃:結果、出てます。

万智:だからぁ! どうだった……!?

雪乃:見てくださいよ、ほら。

 <雪乃は万智の手を顔から離す>

万智:……入選……油絵科二年、瀬名雪乃……!

雪乃:はい。選ばれました。

 <万智は俯く>

雪乃:この学内コンペで入選した作品は、来月からヒルズで始まる展覧会に作品を出せるんです。
   そこには世界中から目の肥えた美術家達が来るので、そこでどういう評価になるかーー

 <雪乃は万智の様子に気づく>
 <万智は顔を覆って泣いている>

万智:(泣きながら)うん……!

雪乃:もう……なんですかぁ……!
   (釣られて涙声になる)
   本当に、泣き虫ですね。万智さんは……!

万智:だってぇ!

 <二人は泣きながら笑う>

万智:(涙を拭いて)本当……! おめでとう、雪乃!

雪乃:(涙を拭いて)ありがとうございます……!
   万智さんのおかげです……。

万智:(吹き出して)実際そうかもね。

雪乃:はい。万智さんが、『絵で勝負してみろ』って言ってくれなかったら……私ずっと、前に進めませんでした。

万智:そっち!? あー、いやいや、そっちじゃない! そうじゃなくてほら……!
   ご飯とかそういうの! 生活周りの話!

雪乃:え、あ……! そ、そっち……。
   あの……ご迷惑をおかけしました……!

万智:いいよ。私も雪乃の熱に引っ張られて、いい刺激をもらえたし。
   ……何より、一緒に生活するのも楽しかったしね。

雪乃:……はい。

万智:それで――

 <万智は雪乃の顔を覗き込む>

万智:……どう? 気分は。

雪乃:気分、ですか?

万智:そう。あなたの芸術が、認められた気分。

雪乃:認められた……。

 <雪乃はじっとノートパソコンの画面を見つめる>

雪乃:……そうか……。認められたんですね、私の絵が。

万智:うん。でも、絵だけじゃないよ。

 <万智は雪乃の胸元を指さす>

万智:あの絵を描いた――雪乃自身が認められたってこと。

雪乃:私が……?

万智:あんなヘロヘロになるまでキャンバスに向かって。
   色を決めるのに何時間も悩んでさ。
   毎日毎日、自分自身と向き合って、一喜一憂を筆に込めてーー

 <万智は雪乃の胸元を、指先で力強く押す>

万智:ほら、出来た。ストーリー。

 <雪乃は目を見開く>

万智:そうだ!
   もしあの絵の説明を、美術館の音声ガイドで流すことがあったら、私が台本担当してあげる。
   『この絵を描きはじめたとき、作者はエアコン切れた部屋でぼーっと座っていた』って書き出しで――

雪乃;万智さん!

 <雪乃は万智の手を握る>

万智:へ!? な、何!?

雪乃:あの! この後! 行きましょう!

万智:行く!? どこへ!?

雪乃:なんかこう……! ムズムズしてしまって!
   こう! なんていうか!
   あの! あの! か、カラオケ!

万智:カラオケ……? 行きたいの?

雪乃:はい! カラオケです!
   あと! お腹が空いています!

万智:(微笑んで)はいはい、わかった。
   何だ……ちゃんと嬉しいんじゃん。


 ◆


 <コンサートホール裏の通用口・外>
 <律は壁を背に、座り込んでいる>

律:(深呼吸)

 間

愛香:身体、冷えてない?

 間

律:ううん。
  ……まだ、熱が冷めてないから。

愛香:お洒落な言い回し。

律:ふふ……いいでしょ?
  今日はボク、すごく気分がいいんだ。

 <愛香は律の隣に座り込む>

愛香:楽しかった?

律:うん。

愛香:どんな感情だった?

律:それ、考えてた。
  さっきまでたくさんの人がひっきりなしで話しかけてきてさ。
  みんな……ボクがどう感じたかを、すごい聞かれた。

愛香:(微笑んで)みんな気になるのよ。
   現れた超新星。しかも彼女はまだ学生で、マルコ・リーの愛弟子。
   引きがある見出しでしょう?

律:実際、マルコはボクのこと、弟子だなんて思ってないだろうけど。

愛香:じゃあ、何て?

律:いい音が鳴る楽器?

愛香:ふ、ふふふふ……! それ、面白い……!

律:冗談じゃないよ……今日だって、『思う通りに弾いていい』なんて言ったくせにさ。
  始まってみたら、全然自由になんてやらせるつもりなかったしね。

愛香:うん。

律:でもさ……マルコの指揮はこう、ボクの腕を優しく掴むみたいに弾かせるんだ。
  力強くて、心地よくて……何も考えなくても、オーケストラと溶け合っていく。
  はじめてだった。
  今までは、自分一人でたどり着く場所だったのに……。

 <律は自分の手のひらを見つめる>

律:本当に――音楽まで、連れていかれちゃった。

 <律はゆっくり手のひらを握りしめる>

律:だから……ボクが今日、何を感じたかってーー

 <律は愛香の顔を覗き込んで笑う>

律:(笑って)ボクのピアノって、まだまだなんだ。

愛香:(微笑んで)……そう。

律:だって、今日のコンサート、すごかったじゃん!
  右も左もみんな超一流で!

愛香:そうね。コンサート全体が、甘美な夢のようだった。

律:愛香さんも言ったけどさ! 今のボクは、ちょっと優秀なマルコの教え子でしかなかった。
  当たり前だけどね。

愛香:でも、それが嬉しい?

律:わかる? そうなんだ。
  今日……弾いて良かった。
  ボクは今、もっともっと、ピアノが上手くなりたいって思えてる。

 <律は獰猛な笑みを浮かべる>

律:絶対……あの場所を、人を、音楽を……。
  ボクが支配してみたい。

愛香:りっちゃんったら、怖い笑顔。

 <愛香は優しげな笑みを浮かべ、律を見つめる>

愛香:ピアノはあなたの一部。
   だから、弾くことに理由なんていらない。
   ストーリーなんて必要ない。
   あなたは、そうやってピアノと付き合っていけばいい。

 <愛香は律の手を取る>

愛香:私が、あなたに音楽をさせてあげると言った。
   そしてあなたは音楽を取り戻した。
   じゃあ――いいよね。

律:……いいって、何が……?

愛香:雪乃にはもう、近づかないで。


 ◆


 <夜・商店街を歩く雪乃と万智の二人>
 <雪乃は酔っぱらっている>

雪乃:ふ、ふふふふ……。

万智:こら、ゆっくり歩け。

雪乃:あはは……すごい、その……!
   楽しいです、今日……!

万智:知ってる。

雪乃:本当ですか?

万智:『ハッピー』が服着てるようにしか見えないし。

雪乃:そうですかね……へへ……。

万智:でも、良かった。

雪乃:良かったですかぁ?

万智:うん。雪乃がはしゃいでることが、嬉しい。

雪乃:嬉しい?

万智:本当はみんな、はしゃいでたいから。

 <万智は雪乃の前を歩く>

万智:難しくなってくでしょ。
   理由とか、環境とか……周りとか、自分とかさ。
   そういうことを考えてると、水の中にいるみたいになっちゃうけど。

雪乃:水の中……。

万智:こうやってふわふわ歩いたっていいと思うのよ。
   それこそ――

 <万智は軽く駆け出す>

万智:ほら! 雪乃、覚えてる?
   このストリートピアノ。

雪乃:懐かしい……!

万智:でしょ! ここで、雪乃が弾いてって言ってさ。
   私、弾いたでしょ?

 <万智と雪乃は笑顔で顔を見合わせる>

雪乃・万智:(同時に)月の光!

 <二人は笑う>

万智:本当、懐かしい……!

雪乃:はい……! 本当に素敵な演奏でした……。

万智:ピアノを弾いていて、溺れそうになると……あの時の演奏を思い出すんだ。
   そうすると、道に迷わず帰れる。私の芸術に。

雪乃:詩的な言い回しですね。

万智:はしゃいでるもの、私も。

雪乃:ふふふ……そうなんですね。

万智:雪乃の芸術も、認められたね。

雪乃:まだ、始めたばかりですけど……でも、少しずつ、許そうと思ってます。

万智:許す?

雪乃:はい。私が……絵を描くということを――

 <雪乃はふらつき、万智は咄嗟に雪乃の手を握る>

万智:あ、っぶないなぁ……!

雪乃:あ……りがとうございます……。

万智:流石に飲みすぎたか。
   よし、帰ろう。

雪乃:……はい。

 <雪乃は万智に手を引かれて歩く>

雪乃:……大きい。

万智:んー?

雪乃:大きい、ですね……手。

万智:……そう? 雪乃が小さいだけじゃない?

雪乃:それもあるかもしれないですけど……。

万智:……ああ、そっか。

 間

万智:似てる? 白沢さんに。

雪乃:……え?

万智:ピアニストの手ではあるから、似てるところあったりするかな。
   でも流石に、白沢律の方が大きいと思うけど。

 間

 <万智は困ったように笑う>

万智:……もしかして、泣いてる?

 <雪乃は俯いて泣いている>

雪乃:……いえ……。

万智:典型的な酔っ払いね、本当……!

雪乃:ごめんなさい……!

万智:(吹き出す)はいはい……。

雪乃:ごめんなさいぃ……!

万智:ほら、行くよー。


 ◆


愛香:雪乃のことは諦めて。
   そういう約束だったわよね。

律:約束なんてしてない……!
  それに、それとこれとは関係ないだろ!

 <律は愛香に詰め寄る>

愛香:音楽が嫌いなの?

律:は!? だから、音楽とそれに何の関係が――

愛香:じゃあ、愛してる?

 <愛香はじっと律を見つめる>

愛香:何が違うの? 愛することに、違いはないでしょう?

律:何、言ってるの。

愛香:だって、選んだでしょう?
   りっちゃんは、雪乃じゃなく、音楽を。

律:違う……!

愛香:なら何故、あなたの側にあの子は居ないの?

 <律は目を見開く>

愛香:あなたにとって、音楽は特別な存在。
   それがわかっているから、雪乃はあなたの側を離れた。

 <愛香は律の頬に触れる>

愛香:あなたのことを良くわかっていた。
   きっと、今ならそれが良くわかるんじゃないかしら。

律:……どうしてそこまで人の心を……踏みにじるんだ。あなたは。

愛香:踏みにじる?

律:何度も言わせないでよ! ボクと雪乃のことは関係ない!

 <律は愛香を睨みつける>

律:これはボクとあなたの問題だ……!

愛香:だからお願いしてるんじゃない。

 <愛香は首をかしげて、律の頬に手を伸ばす>

愛香:欲しいものはあげた。
   心の隙間も、音楽との間に産まれた穴も、私が埋めてあげたわ。
   その代わりに、お願いをしているだけ。

律:お願い……?
  そんな可愛いものじゃないだろ……!

愛香:……どうして。

 <愛香は冷たい瞳で律を見つめる>

愛香:どうして……私を見ようとしないの?

律:今度はなんの話だよ……!

愛香:りっちゃんは私のことを知ろうともしなかったじゃない。
   私と雪乃の過去のことも、聞こうともしなかった。
   私がどうしてここまでしてあなたにお願いをしていると思うの?
   ただあなたの心を踏みにじるためにしていることだと……本当に思うの?

律:それは――

 間

 <沈黙・愛香は諦めたように瞳を閉じる>

愛香:責めたいわけじゃないわ。
   でも……私にだってこれだけは譲れない。

 <愛香はそっと手を伸ばす>

愛香:……音楽は、嘘をつかない。
   りっちゃん。私についてきて。


 ◆


 <雪乃と万智は手を繋いで公園を歩いている>

雪乃:万智さん……!

万智:何?

雪乃:いや……! あの……。
   もう、大丈夫です……! その……酔いも、醒めたので……。
   手……握らなくても……。

万智:嫌だって言ったら?

雪乃:そ、それは、困るっていうか……。
   恥ずかしい……。

万智:何を今更……。
   もっと恥ずかしがることがいっぱいあるでしょ、雪乃には。

雪乃:そういう問題ではなくてですね……!

 <万智は口元に笑みを浮かべる>

万智:なんとなくね、嫌なの。

雪乃:何がですか?

万智:んー? 白沢律のせいで泣いてる子の手は、離したくない。

 間

雪乃:……律の、せいじゃないです。

万智:そう? それならそうでもいいけどさ。

 <雪乃は顔を伏せると、強く万智の手を握る>

万智:覚えてる? 雪乃と話すようになったきっかけ。

雪乃:部屋の前で、万智さん……座り込んでて。

万智:そうそう。
   私、あの時……白沢さんに伴奏の座を奪われたって、すごく悔しくて。
   あの後、何度も泣いちゃってるけど、あれが最初だったよね。

雪乃:二回目。

万智:え?

雪乃:万智さんが、泣いてるのを見たの……あの時が二回目でした。

万智:は!? え? 一回目はいつ……?

雪乃:高校一年生の時の学生コンクール。
   会場の出口で。

万智:……あ。

 <万智は片手で口を覆う>

万智:嘘でしょ……! あの時、いたってこと……?
   どんな偶然よ、それ……!

雪乃:あ、あの……すみません。黙ってて……。

万智:雪乃が謝ることじゃないでしょ……。
   でも……そっかぁ、あの時の、見てたんだ……。
   じゃあ、余計に二回目が……あー、なんていうか……。

 間

万智:本当、ダサかったよ。
   だって、あの時と言ってること、変わってないんだもんね。
   何年経っても「才能がない」って、泣いてるだけなんだもん。

雪乃:ダサいなんて、思いませんでしたよ。
   ただ……なんていうか……。

万智:いいよ、はっきり言って。

 間

雪乃:私、自分に才能がないって、ずっと思ってます。
   絵をはじめてからずっと、ずっと思ってます。

万智:うん。

雪乃:でもあの時……万智さんの姿を見て、気づきました。
   結局私は、考えているフリをしてきただけだったんです。
   本当は……自分がここまで芸術の道を進んでいることに、疑問も持っていませんでした。

 <雪乃は自分の手を見つめる>

雪乃:ただ続けることと……選び続けることは、違うんですよね。

万智:……選び続けること、か。

 <万智は宙を見上げて息を吐く>

万智:……無くなったり、取られたりしちゃうものばかりだから。
   努力をしても追いつけない。認められない。
   ようやく手に入れたと思っても、躓いた拍子にどこかにいってしまう。
   そういうものばかりだから。
   でも……私がピアノを弾き続ける限り、私のピアノは無くならない。

 <万智はゆっくりと目を瞑る>

万智:それを私に思い出させてくれたのは……。


万智N:ふと見上げた空から、月の光が見下ろしていた。
    その光が見えた瞬間。
    私の中で何かが確かに、音を立てた。
    弦が震えるような微かな旋律が、確かに聴こえた。
    もしかしたら、これは――

 <万智は雪乃の手を思い切り引くと、雪乃を抱きしめる>

雪乃:え――


万智N:その音が何なのか、深く考える間もなく――私は衝動のまま、雪乃の身体を抱きしめていた。


 ◆


 <律と愛香は、コンサートホールの控室に向かって歩いている>

律:……どこに連れて行くつもり。

愛香:控室。

律:どうして。

愛香:ピアノがおいてあるから。

律:……どういうこと。
  ここでボクに伴奏しろって?
  そんな気分だと思うの?

愛香:いいえ。

 <控室のドアをノックした後、ゆっくりと開ける>
 <控室にはマルコ・リーが座って、スコアに目を落としている>

愛香:……マエストロ・リー。

律:……マルコ。あの、ごめんなさい。まだ居るとは――

愛香:少し、ピアノをお借りしてもよろしいでしょうか。

律:そんないきなり、いくらなんでも失礼だろ――

 <マルコ・リーは小さく微笑むと、席を立つ>

愛香:感謝いたしますわ。マエストロ。

律:え……本当に、いいの?

 <マルコは二人を部屋に招き入れると、愛香に耳打ちをして部屋を出ていく>

愛香:……はい。すぐにお返しします。

律:ほ、本当に出て行っちゃった……。
  マルコは、今なんて……?

愛香:「あまり虐めないで」ですって。

律:……なんのこと。

 <愛香は控室の端に置かれたピアノに歩み寄る>

愛香:今から、一曲弾くわ。

律:……愛香さんが、でいいんだよね。

愛香:ええ。
   曲目は、ショパン・バラード第四番、ヘ短調。

律:難曲だね……。指は動くの?

愛香:どうかしら。

律:いいよ……聴かせて。
  それで、愛香さんのことがわかるっていうなら、ボクはそれを聴くべきだ。

愛香:……ありがとう。


律N:彼女は椅子に座り、鍵盤蓋(けんばんふた)を開ける。
   鍵盤の左から撫でるようにゆっくりと触れ、手慣れた様子で椅子の位置を調整する。
   それだけでわかる。
   眼の前にいる彼女が、今までに数え切れないほどピアノを弾いてきたのだと。


愛香:この曲は私がピアノを辞めた日に、最後に弾くのを選んだ曲。
   初めて雪乃と出会った日――私とあの子を出会わせてくれた曲。
   私が――音楽に捧げ続ける理由。


律N:そして彼女が鍵盤を見下ろす横顔を見た瞬間――考えてしまう。
   出会ってから今まで……彼女が一度でも、音楽に背を向けていると感じたことはあっただろうか。
   隣で伴奏し、歌を聞いているときだけじゃない。
   側で過ごしたこの数ヶ月の間、一瞬でも彼女が音楽から離れたことがあっただろうか。
   何かを見て、感じて、生きている全てが、音楽へと捧げられていたのではなかったか。
   「音楽は嘘をつかない」
   だとしたら、自分は――彼女のピアノを聞いて、何を感じるだろうか。
   心臓が脈打ち、緊張で手が震える。
   まるで……判決を待つ囚人になった気分だ。


愛香:どこにいてもいい……しっかりと聴いていてね。


律N:「音楽を聴くのが、怖い」
   産まれて初めて、そう思った。


愛香:……あなたのために弾くわ――雪乃。


律N:そして、バラードは語り始める。


 ◆


 <公園の街頭の下、万智は雪乃を抱きしめている>

雪乃:……万智、さん?
   どうしたんです……?


万智N:どうしよう。


雪乃:もしかして……結構、酔っ払ってました……?


万智N:どうしよう。抱きしめてしまった。どうしよう。
    そう――ずっと、頭の片隅で考え続けていた。


 間


万智N:ううん、嘘だ。


 間


万智N:本当は、思っていた。
    「この時間がずっと続けばいいのに」
    もっともらしい理由だとか、それらしい言い訳なんてない。
    ただ、そうした。
    何もかもが自分らしくない。
    望んでいるものなんて、そうない癖に。
    ただ少しのプライドと、憧れた音楽を追い続けることだけが取り柄の、凡人の癖に。
    今はただ――「欲しいもの」が欲しいと、子どもみたいに雪乃を抱きしめていた。
    わかっている。
    彼女の心が、いつも白沢律のことで泣いていることも。
    私のことをとても――


雪乃:ふふ……万智さん。


万智N:大切にして、心を許して、抱きしめ返してくれることも。


雪乃:なんだか、安心しますね……。


万智N:それが――とても暖かい、友愛であることも。


 間


 <万智は雪乃の身体を離す>

万智:……どう?

雪乃:え?

万智:いつも変なことして、私を驚かせるでしょ?

 <万智は雪乃の肩を叩く>

雪乃:え、あ……え!?
   そ、そういうことだったんですか!?

万智:(吹き出して笑う)

雪乃:もうー! 万智さーん……!

万智:あーおっかしい……!

 <万智は穏やかに微笑む>

万智:でも、感謝してるんだ。本当に。

雪乃:それは……今日は私のセリフなんですからね。

 <万智は雪乃に手を差し出す>

万智:それに! 私も、暖かかったよ。

 <雪乃は自然に万智の手を握る>

万智:帰ろう、雪乃。

雪乃:はい。

 間

 <雪乃はふと立ち止まる>

律:雪乃? どうしたの?

雪乃:……いえ。

 <雪乃はそっと目を閉じる>

雪乃:歌が……聴こえた気がして。


 ◆


愛香N:みんなが嬉しそうに見せてくれる鉢植え。
    「色とりどりのお花が咲いたよ」と。
    「こんなに鮮やかなの。綺麗でしょう」と。
    ねえ……どんな栄養を与えたらそうなるの?
    そんな風に咲いたら、どんな気持ちになるの?
    わからない。わからない。
    わかりたい。わかりたかった。
    そんな花を咲かせられる人間になりたかった。
    でも、私の鉢植えはいつも空っぽ。
    種を植えても、いつまで経ってもお花は咲かない。
    どんな言葉を掛けても、どれだけ手間をかけても、私の鉢植えだけ、いつも空っぽ。
    でも見て――今日は私の鉢植えの周りに、人が集まってくれたよ。
    私が綺麗な造花を植えたから。
    立派な見た目で、決して枯れることのないお花。

    「……嘘つき」

    こんなお花になんの意味があるの?
    綺麗だと囃し立てるけれど、それになんの意味があるの?

    「嘘つき」

    一瞬のうちに咲き誇っては、少しのことで枯れてしまう。
    そんなあなた達のお花のほうが、ずっとずっと綺麗に見えるのに。

    「愛なんて、嘘」

    私の鉢植え。空っぽだった鉢植え。
    ある日、毎日その鉢植えを日向に出してくれる人がいた。
    その人は、造花を押しのけて、芽の出ない種に、必死に水を与えてくれた。

    「だめ」

    芽が出なくても、お花が咲かなくても、それでも、私の鉢植えは――

    「愛なんて、嘘?」

    お願い。咲いて。
    咲いて、咲いて、咲いて、咲いて……。
    本当に――なって。


 ◆


 <ピアノを弾き終えた愛香はゆっくりと椅子から立ち上がる>

愛香:(息を吐く)

 間

愛香:……ひどい気分。

 間

愛香:マエストロには、私から声を掛けておくわ。
   ……また、お話をしましょう。

 <愛香は、鍵盤蓋を閉じると、呆然と立ち尽くしている律の元へと歩いていく>

愛香:……やっぱり。ピアノなんて、弾くべきじゃなかった。

 <愛香は唇を噛みしめると、律の耳元で囁くように呟く>

愛香:ごめんなさい。りっちゃん。
   ……今日のコンサート、とても良かった。
   今日、私が言ったこと、気にしないでいいから。
   ……それじゃあね。

 <愛香は足早に控室を出ていく>

 間

 <律はしばらくその場に立ち尽くした後、ゆっくりとその場に座り込む>

律:……なんだよ、それ。

 <律の目から、涙が溢れ出てくる>

律:嘘つきじゃないか……! こんなの……!
  こんな演奏されて……! ボクに……!
  どうしろっていうんだよ……!

 <律は両手で自分の顔を覆う>

律:音楽は……嘘を、つかない……?

 <律はその場に蹲る>

律:……嘘つき……!




「少女遊星」第五話 終






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