「少女遊星」・五
作者:ススキドミノ
瀬名 雪乃(せな ゆきの):19歳。西東京芸術学園。美術学部2年。油絵専攻。
白沢 律(しらさわ りつ):20歳。西東京芸術学園。音楽学部、ピアノ科2年。
晴海 万智(はるみ まち):20歳。西東京芸術学園。音楽学部、ピアノ科2年。
園部 愛香(そのべ まなか):21歳。西東京芸術学園。音楽学部、声楽科3年。
※2018年1月18日 台本使用規約改定(必読)
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◆
律N:静寂。
天を仰ぎ、ゆっくりと目を開ける。
目に飛び込んでくる光……ボクとピアノを照らす光。
心を広げていく。広がっていく意識が、空間へ溶けていく。
そして聞こえてくる。たくさんの人間の息遣い。衣擦れや、靴が擦れる囁き。
カラン、と甲高い音が鳴る。
視線を向けると、指揮棒を持ったマルコ・リーが、口元に笑みを浮かべていた。
世界的なマエストロだっていうのに、まるで子供みたいだ。
その眼が言ってる。
『音楽の歓びだ、律』
ああ。あなたのその指揮棒で……ボクの手を引いて連れて行こうっていうんだね。
でもね、マルコ。ボクはもう、迷子はお終いにしたんだ。
音楽なら、知ってる。
手を伸ばせば届く? 大丈夫、届く。
このコンサートホールの隅から隅まで、ボクの手は届く。
律:(深呼吸)……うん、今行くよ。
律N:第一楽章、ハ短調、二分の二拍子。
ここは教会で、ボクは鐘撞き。
マルコが振り上げた指揮棒が目指すのは、ボクのピアノの向こう側。
今だ――鐘を鳴らせ。
<ラフマニノフ・ピアノ協奏曲・第二番>
<律は第一楽章を弾き始める>
◆
<雪乃は部屋の窓から空を眺めて呟く>
雪乃:(つぶやき)……本日の気温は晴れ。予想最高気温は三十度、湿度は三十六パーセント。
カラッとした暑さとなるでしょう。
<手で円を作ると、空を覗き込む>
雪乃:空の色は、鮮やかなフェルメールブルーに見えるでしょう……なんて……。
<万智は慌ただしく雪乃の部屋に入ってくる>
万智:雪乃ッ!
雪乃:万智さん?
<万智は雪乃に歩み寄ると、肩を掴む>
万智:……もう見た!?
雪乃:え? な、何を?
万智:それ! ジョークで言ってるのよね!?
マジだったら引っ叩く!
雪乃:え、あ……。
<雪乃は一瞬考え込んで、手を叩く>
雪乃:あー!
<万智は雪乃の頬をつまむ>
万智:あーじゃないぃ!
雪乃:(頬をつままれながら)い、いたい……!
万智:なんで当事者よりも私の方が気にしてるのよ……!
雪乃:ごめんなさい……! 時間までは覚えてなかったです……!
万智:タブレットは!?
雪乃:ノートパソコンがそこに……!
万智:ほら、隣座る!
雪乃:……はい。
<万智と雪乃は並んで座ると、ノートパソコンを開く>
万智:発表って、ホームページから?
雪乃:はい。
万智:オッケー……発表予定が十五時で、今は……。
雪乃:あ。発表ページのリンク、もうありますよ。
万智:よ、よし! じゃあ、自分でクリックしてよ。
雪乃:わ、私がですか……?
万智:あああ当たり前でしょ……!
私は緊張で無理……! 絶対……!
雪乃:(深呼吸)……押します……!
<雪乃はクリックする>
<万智は顔を覆っている>
万智:ど、どう……?
間
万智:雪乃……?
雪乃:結果、出てます。
万智:だからぁ! どうだった……!?
雪乃:見てくださいよ、ほら。
<雪乃は万智の手を顔から離す>
万智:……入選……油絵科二年、瀬名雪乃……!
雪乃:はい。選ばれました。
<万智は俯く>
雪乃:この学内コンペで入選した作品は、来月からヒルズで始まる展覧会に作品を出せるんです。
そこには世界中から目の肥えた美術家達が来るので、そこでどういう評価になるかーー
<雪乃は万智の様子に気づく>
<万智は顔を覆って泣いている>
万智:(泣きながら)うん……!
雪乃:もう……なんですかぁ……!
(釣られて涙声になる)
本当に、泣き虫ですね。万智さんは……!
万智:だってぇ!
<二人は泣きながら笑う>
万智:(涙を拭いて)本当……! おめでとう、雪乃!
雪乃:(涙を拭いて)ありがとうございます……!
万智さんのおかげです……。
万智:(吹き出して)実際そうかもね。
雪乃:はい。万智さんが、『絵で勝負してみろ』って言ってくれなかったら……私ずっと、前に進めませんでした。
万智:そっち!? あー、いやいや、そっちじゃない! そうじゃなくてほら……!
ご飯とかそういうの! 生活周りの話!
雪乃:え、あ……! そ、そっち……。
あの……ご迷惑をおかけしました……!
万智:いいよ。私も雪乃の熱に引っ張られて、いい刺激をもらえたし。
……何より、一緒に生活するのも楽しかったしね。
雪乃:……はい。
万智:それで――
<万智は雪乃の顔を覗き込む>
万智:……どう? 気分は。
雪乃:気分、ですか?
万智:そう。あなたの芸術が、認められた気分。
雪乃:認められた……。
<雪乃はじっとノートパソコンの画面を見つめる>
雪乃:……そうか……。認められたんですね、私の絵が。
万智:うん。でも、絵だけじゃないよ。
<万智は雪乃の胸元を指さす>
万智:あの絵を描いた――雪乃自身が認められたってこと。
雪乃:私が……?
万智:あんなヘロヘロになるまでキャンバスに向かって。
色を決めるのに何時間も悩んでさ。
毎日毎日、自分自身と向き合って、一喜一憂を筆に込めてーー
<万智は雪乃の胸元を、指先で力強く押す>
万智:ほら、出来た。ストーリー。
<雪乃は目を見開く>
万智:そうだ!
もしあの絵の説明を、美術館の音声ガイドで流すことがあったら、私が台本担当してあげる。
『この絵を描きはじめたとき、作者はエアコン切れた部屋でぼーっと座っていた』って書き出しで――
雪乃;万智さん!
<雪乃は万智の手を握る>
万智:へ!? な、何!?
雪乃:あの! この後! 行きましょう!
万智:行く!? どこへ!?
雪乃:なんかこう……! ムズムズしてしまって!
こう! なんていうか!
あの! あの! か、カラオケ!
万智:カラオケ……? 行きたいの?
雪乃:はい! カラオケです!
あと! お腹が空いています!
万智:(微笑んで)はいはい、わかった。
何だ……ちゃんと嬉しいんじゃん。
◆
<コンサートホール裏の通用口・外>
<律は壁を背に、座り込んでいる>
律:(深呼吸)
間
愛香:身体、冷えてない?
間
律:ううん。
……まだ、熱が冷めてないから。
愛香:お洒落な言い回し。
律:ふふ……いいでしょ?
今日はボク、すごく気分がいいんだ。
<愛香は律の隣に座り込む>
愛香:楽しかった?
律:うん。
愛香:どんな感情だった?
律:それ、考えてた。
さっきまでたくさんの人がひっきりなしで話しかけてきてさ。
みんな……ボクがどう感じたかを、すごい聞かれた。
愛香:(微笑んで)みんな気になるのよ。
現れた超新星。しかも彼女はまだ学生で、マルコ・リーの愛弟子。
引きがある見出しでしょう?
律:実際、マルコはボクのこと、弟子だなんて思ってないだろうけど。
愛香:じゃあ、何て?
律:いい音が鳴る楽器?
愛香:ふ、ふふふふ……! それ、面白い……!
律:冗談じゃないよ……今日だって、『思う通りに弾いていい』なんて言ったくせにさ。
始まってみたら、全然自由になんてやらせるつもりなかったしね。
愛香:うん。
律:でもさ……マルコの指揮はこう、ボクの腕を優しく掴むみたいに弾かせるんだ。
力強くて、心地よくて……何も考えなくても、オーケストラと溶け合っていく。
はじめてだった。
今までは、自分一人でたどり着く場所だったのに……。
<律は自分の手のひらを見つめる>
律:本当に――音楽まで、連れていかれちゃった。
<律はゆっくり手のひらを握りしめる>
律:だから……ボクが今日、何を感じたかってーー
<律は愛香の顔を覗き込んで笑う>
律:(笑って)ボクのピアノって、まだまだなんだ。
愛香:(微笑んで)……そう。
律:だって、今日のコンサート、すごかったじゃん!
右も左もみんな超一流で!
愛香:そうね。コンサート全体が、甘美な夢のようだった。
律:愛香さんも言ったけどさ! 今のボクは、ちょっと優秀なマルコの教え子でしかなかった。
当たり前だけどね。
愛香:でも、それが嬉しい?
律:わかる? そうなんだ。
今日……弾いて良かった。
ボクは今、もっともっと、ピアノが上手くなりたいって思えてる。
<律は獰猛な笑みを浮かべる>
律:絶対……あの場所を、人を、音楽を……。
ボクが支配してみたい。
愛香:りっちゃんったら、怖い笑顔。
<愛香は優しげな笑みを浮かべ、律を見つめる>
愛香:ピアノはあなたの一部。
だから、弾くことに理由なんていらない。
ストーリーなんて必要ない。
あなたは、そうやってピアノと付き合っていけばいい。
<愛香は律の手を取る>
愛香:私が、あなたに音楽をさせてあげると言った。
そしてあなたは音楽を取り戻した。
じゃあ――いいよね。
律:……いいって、何が……?
愛香:雪乃にはもう、近づかないで。
◆
<夜・商店街を歩く雪乃と万智の二人>
<雪乃は酔っぱらっている>
雪乃:ふ、ふふふふ……。
万智:こら、ゆっくり歩け。
雪乃:あはは……すごい、その……!
楽しいです、今日……!
万智:知ってる。
雪乃:本当ですか?
万智:『ハッピー』が服着てるようにしか見えないし。
雪乃:そうですかね……へへ……。
万智:でも、良かった。
雪乃:良かったですかぁ?
万智:うん。雪乃がはしゃいでることが、嬉しい。
雪乃:嬉しい?
万智:本当はみんな、はしゃいでたいから。
<万智は雪乃の前を歩く>
万智:難しくなってくでしょ。
理由とか、環境とか……周りとか、自分とかさ。
そういうことを考えてると、水の中にいるみたいになっちゃうけど。
雪乃:水の中……。
万智:こうやってふわふわ歩いたっていいと思うのよ。
それこそ――
<万智は軽く駆け出す>
万智:ほら! 雪乃、覚えてる?
このストリートピアノ。
雪乃:懐かしい……!
万智:でしょ! ここで、雪乃が弾いてって言ってさ。
私、弾いたでしょ?
<万智と雪乃は笑顔で顔を見合わせる>
雪乃・万智:(同時に)月の光!
<二人は笑う>
万智:本当、懐かしい……!
雪乃:はい……! 本当に素敵な演奏でした……。
万智:ピアノを弾いていて、溺れそうになると……あの時の演奏を思い出すんだ。
そうすると、道に迷わず帰れる。私の芸術に。
雪乃:詩的な言い回しですね。
万智:はしゃいでるもの、私も。
雪乃:ふふふ……そうなんですね。
万智:雪乃の芸術も、認められたね。
雪乃:まだ、始めたばかりですけど……でも、少しずつ、許そうと思ってます。
万智:許す?
雪乃:はい。私が……絵を描くということを――
<雪乃はふらつき、万智は咄嗟に雪乃の手を握る>
万智:あ、っぶないなぁ……!
雪乃:あ……りがとうございます……。
万智:流石に飲みすぎたか。
よし、帰ろう。
雪乃:……はい。
<雪乃は万智に手を引かれて歩く>
雪乃:……大きい。
万智:んー?
雪乃:大きい、ですね……手。
万智:……そう? 雪乃が小さいだけじゃない?
雪乃:それもあるかもしれないですけど……。
万智:……ああ、そっか。
間
万智:似てる? 白沢さんに。
雪乃:……え?
万智:ピアニストの手ではあるから、似てるところあったりするかな。
でも流石に、白沢律の方が大きいと思うけど。
間
<万智は困ったように笑う>
万智:……もしかして、泣いてる?
<雪乃は俯いて泣いている>
雪乃:……いえ……。
万智:典型的な酔っ払いね、本当……!
雪乃:ごめんなさい……!
万智:(吹き出す)はいはい……。
雪乃:ごめんなさいぃ……!
万智:ほら、行くよー。
◆
愛香:雪乃のことは諦めて。
そういう約束だったわよね。
律:約束なんてしてない……!
それに、それとこれとは関係ないだろ!
<律は愛香に詰め寄る>
愛香:音楽が嫌いなの?
律:は!? だから、音楽とそれに何の関係が――
愛香:じゃあ、愛してる?
<愛香はじっと律を見つめる>
愛香:何が違うの? 愛することに、違いはないでしょう?
律:何、言ってるの。
愛香:だって、選んだでしょう?
りっちゃんは、雪乃じゃなく、音楽を。
律:違う……!
愛香:なら何故、あなたの側にあの子は居ないの?
<律は目を見開く>
愛香:あなたにとって、音楽は特別な存在。
それがわかっているから、雪乃はあなたの側を離れた。
<愛香は律の頬に触れる>
愛香:あなたのことを良くわかっていた。
きっと、今ならそれが良くわかるんじゃないかしら。
律:……どうしてそこまで人の心を……踏みにじるんだ。あなたは。
愛香:踏みにじる?
律:何度も言わせないでよ! ボクと雪乃のことは関係ない!
<律は愛香を睨みつける>
律:これはボクとあなたの問題だ……!
愛香:だからお願いしてるんじゃない。
<愛香は首をかしげて、律の頬に手を伸ばす>
愛香:欲しいものはあげた。
心の隙間も、音楽との間に産まれた穴も、私が埋めてあげたわ。
その代わりに、お願いをしているだけ。
律:お願い……?
そんな可愛いものじゃないだろ……!
愛香:……どうして。
<愛香は冷たい瞳で律を見つめる>
愛香:どうして……私を見ようとしないの?
律:今度はなんの話だよ……!
愛香:りっちゃんは私のことを知ろうともしなかったじゃない。
私と雪乃の過去のことも、聞こうともしなかった。
私がどうしてここまでしてあなたにお願いをしていると思うの?
ただあなたの心を踏みにじるためにしていることだと……本当に思うの?
律:それは――
間
<沈黙・愛香は諦めたように瞳を閉じる>
愛香:責めたいわけじゃないわ。
でも……私にだってこれだけは譲れない。
<愛香はそっと手を伸ばす>
愛香:……音楽は、嘘をつかない。
りっちゃん。私についてきて。
◆
<雪乃と万智は手を繋いで公園を歩いている>
雪乃:万智さん……!
万智:何?
雪乃:いや……! あの……。
もう、大丈夫です……! その……酔いも、醒めたので……。
手……握らなくても……。
万智:嫌だって言ったら?
雪乃:そ、それは、困るっていうか……。
恥ずかしい……。
万智:何を今更……。
もっと恥ずかしがることがいっぱいあるでしょ、雪乃には。
雪乃:そういう問題ではなくてですね……!
<万智は口元に笑みを浮かべる>
万智:なんとなくね、嫌なの。
雪乃:何がですか?
万智:んー? 白沢律のせいで泣いてる子の手は、離したくない。
間
雪乃:……律の、せいじゃないです。
万智:そう? それならそうでもいいけどさ。
<雪乃は顔を伏せると、強く万智の手を握る>
万智:覚えてる? 雪乃と話すようになったきっかけ。
雪乃:部屋の前で、万智さん……座り込んでて。
万智:そうそう。
私、あの時……白沢さんに伴奏の座を奪われたって、すごく悔しくて。
あの後、何度も泣いちゃってるけど、あれが最初だったよね。
雪乃:二回目。
万智:え?
雪乃:万智さんが、泣いてるのを見たの……あの時が二回目でした。
万智:は!? え? 一回目はいつ……?
雪乃:高校一年生の時の学生コンクール。
会場の出口で。
万智:……あ。
<万智は片手で口を覆う>
万智:嘘でしょ……! あの時、いたってこと……?
どんな偶然よ、それ……!
雪乃:あ、あの……すみません。黙ってて……。
万智:雪乃が謝ることじゃないでしょ……。
でも……そっかぁ、あの時の、見てたんだ……。
じゃあ、余計に二回目が……あー、なんていうか……。
間
万智:本当、ダサかったよ。
だって、あの時と言ってること、変わってないんだもんね。
何年経っても「才能がない」って、泣いてるだけなんだもん。
雪乃:ダサいなんて、思いませんでしたよ。
ただ……なんていうか……。
万智:いいよ、はっきり言って。
間
雪乃:私、自分に才能がないって、ずっと思ってます。
絵をはじめてからずっと、ずっと思ってます。
万智:うん。
雪乃:でもあの時……万智さんの姿を見て、気づきました。
結局私は、考えているフリをしてきただけだったんです。
本当は……自分がここまで芸術の道を進んでいることに、疑問も持っていませんでした。
<雪乃は自分の手を見つめる>
雪乃:ただ続けることと……選び続けることは、違うんですよね。
万智:……選び続けること、か。
<万智は宙を見上げて息を吐く>
万智:……無くなったり、取られたりしちゃうものばかりだから。
努力をしても追いつけない。認められない。
ようやく手に入れたと思っても、躓いた拍子にどこかにいってしまう。
そういうものばかりだから。
でも……私がピアノを弾き続ける限り、私のピアノは無くならない。
<万智はゆっくりと目を瞑る>
万智:それを私に思い出させてくれたのは……。
万智N:ふと見上げた空から、月の光が見下ろしていた。
その光が見えた瞬間。
私の中で何かが確かに、音を立てた。
弦が震えるような微かな旋律が、確かに聴こえた。
もしかしたら、これは――
<万智は雪乃の手を思い切り引くと、雪乃を抱きしめる>
雪乃:え――
万智N:その音が何なのか、深く考える間もなく――私は衝動のまま、雪乃の身体を抱きしめていた。
◆
<律と愛香は、コンサートホールの控室に向かって歩いている>
律:……どこに連れて行くつもり。
愛香:控室。
律:どうして。
愛香:ピアノがおいてあるから。
律:……どういうこと。
ここでボクに伴奏しろって?
そんな気分だと思うの?
愛香:いいえ。
<控室のドアをノックした後、ゆっくりと開ける>
<控室にはマルコ・リーが座って、スコアに目を落としている>
愛香:……マエストロ・リー。
律:……マルコ。あの、ごめんなさい。まだ居るとは――
愛香:少し、ピアノをお借りしてもよろしいでしょうか。
律:そんないきなり、いくらなんでも失礼だろ――
<マルコ・リーは小さく微笑むと、席を立つ>
愛香:感謝いたしますわ。マエストロ。
律:え……本当に、いいの?
<マルコは二人を部屋に招き入れると、愛香に耳打ちをして部屋を出ていく>
愛香:……はい。すぐにお返しします。
律:ほ、本当に出て行っちゃった……。
マルコは、今なんて……?
愛香:「あまり虐めないで」ですって。
律:……なんのこと。
<愛香は控室の端に置かれたピアノに歩み寄る>
愛香:今から、一曲弾くわ。
律:……愛香さんが、でいいんだよね。
愛香:ええ。
曲目は、ショパン・バラード第四番、ヘ短調。
律:難曲だね……。指は動くの?
愛香:どうかしら。
律:いいよ……聴かせて。
それで、愛香さんのことがわかるっていうなら、ボクはそれを聴くべきだ。
愛香:……ありがとう。
律N:彼女は椅子に座り、鍵盤蓋(けんばんふた)を開ける。
鍵盤の左から撫でるようにゆっくりと触れ、手慣れた様子で椅子の位置を調整する。
それだけでわかる。
眼の前にいる彼女が、今までに数え切れないほどピアノを弾いてきたのだと。
愛香:この曲は私がピアノを辞めた日に、最後に弾くのを選んだ曲。
初めて雪乃と出会った日――私とあの子を出会わせてくれた曲。
私が――音楽に捧げ続ける理由。
律N:そして彼女が鍵盤を見下ろす横顔を見た瞬間――考えてしまう。
出会ってから今まで……彼女が一度でも、音楽に背を向けていると感じたことはあっただろうか。
隣で伴奏し、歌を聞いているときだけじゃない。
側で過ごしたこの数ヶ月の間、一瞬でも彼女が音楽から離れたことがあっただろうか。
何かを見て、感じて、生きている全てが、音楽へと捧げられていたのではなかったか。
「音楽は嘘をつかない」
だとしたら、自分は――彼女のピアノを聞いて、何を感じるだろうか。
心臓が脈打ち、緊張で手が震える。
まるで……判決を待つ囚人になった気分だ。
愛香:どこにいてもいい……しっかりと聴いていてね。
律N:「音楽を聴くのが、怖い」
産まれて初めて、そう思った。
愛香:……あなたのために弾くわ――雪乃。
律N:そして、バラードは語り始める。
◆
<公園の街頭の下、万智は雪乃を抱きしめている>
雪乃:……万智、さん?
どうしたんです……?
万智N:どうしよう。
雪乃:もしかして……結構、酔っ払ってました……?
万智N:どうしよう。抱きしめてしまった。どうしよう。
そう――ずっと、頭の片隅で考え続けていた。
間
万智N:ううん、嘘だ。
間
万智N:本当は、思っていた。
「この時間がずっと続けばいいのに」
もっともらしい理由だとか、それらしい言い訳なんてない。
ただ、そうした。
何もかもが自分らしくない。
望んでいるものなんて、そうない癖に。
ただ少しのプライドと、憧れた音楽を追い続けることだけが取り柄の、凡人の癖に。
今はただ――「欲しいもの」が欲しいと、子どもみたいに雪乃を抱きしめていた。
わかっている。
彼女の心が、いつも白沢律のことで泣いていることも。
私のことをとても――
雪乃:ふふ……万智さん。
万智N:大切にして、心を許して、抱きしめ返してくれることも。
雪乃:なんだか、安心しますね……。
万智N:それが――とても暖かい、友愛であることも。
間
<万智は雪乃の身体を離す>
万智:……どう?
雪乃:え?
万智:いつも変なことして、私を驚かせるでしょ?
<万智は雪乃の肩を叩く>
雪乃:え、あ……え!?
そ、そういうことだったんですか!?
万智:(吹き出して笑う)
雪乃:もうー! 万智さーん……!
万智:あーおっかしい……!
<万智は穏やかに微笑む>
万智:でも、感謝してるんだ。本当に。
雪乃:それは……今日は私のセリフなんですからね。
<万智は雪乃に手を差し出す>
万智:それに! 私も、暖かかったよ。
<雪乃は自然に万智の手を握る>
万智:帰ろう、雪乃。
雪乃:はい。
間
<雪乃はふと立ち止まる>
律:雪乃? どうしたの?
雪乃:……いえ。
<雪乃はそっと目を閉じる>
雪乃:歌が……聴こえた気がして。
◆
愛香N:みんなが嬉しそうに見せてくれる鉢植え。
「色とりどりのお花が咲いたよ」と。
「こんなに鮮やかなの。綺麗でしょう」と。
ねえ……どんな栄養を与えたらそうなるの?
そんな風に咲いたら、どんな気持ちになるの?
わからない。わからない。
わかりたい。わかりたかった。
そんな花を咲かせられる人間になりたかった。
でも、私の鉢植えはいつも空っぽ。
種を植えても、いつまで経ってもお花は咲かない。
どんな言葉を掛けても、どれだけ手間をかけても、私の鉢植えだけ、いつも空っぽ。
でも見て――今日は私の鉢植えの周りに、人が集まってくれたよ。
私が綺麗な造花を植えたから。
立派な見た目で、決して枯れることのないお花。
「……嘘つき」
こんなお花になんの意味があるの?
綺麗だと囃し立てるけれど、それになんの意味があるの?
「嘘つき」
一瞬のうちに咲き誇っては、少しのことで枯れてしまう。
そんなあなた達のお花のほうが、ずっとずっと綺麗に見えるのに。
「愛なんて、嘘」
私の鉢植え。空っぽだった鉢植え。
ある日、毎日その鉢植えを日向に出してくれる人がいた。
その人は、造花を押しのけて、芽の出ない種に、必死に水を与えてくれた。
「だめ」
芽が出なくても、お花が咲かなくても、それでも、私の鉢植えは――
「愛なんて、嘘?」
お願い。咲いて。
咲いて、咲いて、咲いて、咲いて……。
本当に――なって。
◆
<ピアノを弾き終えた愛香はゆっくりと椅子から立ち上がる>
愛香:(息を吐く)
間
愛香:……ひどい気分。
間
愛香:マエストロには、私から声を掛けておくわ。
……また、お話をしましょう。
<愛香は、鍵盤蓋を閉じると、呆然と立ち尽くしている律の元へと歩いていく>
愛香:……やっぱり。ピアノなんて、弾くべきじゃなかった。
<愛香は唇を噛みしめると、律の耳元で囁くように呟く>
愛香:ごめんなさい。りっちゃん。
……今日のコンサート、とても良かった。
今日、私が言ったこと、気にしないでいいから。
……それじゃあね。
<愛香は足早に控室を出ていく>
間
<律はしばらくその場に立ち尽くした後、ゆっくりとその場に座り込む>
律:……なんだよ、それ。
<律の目から、涙が溢れ出てくる>
律:嘘つきじゃないか……! こんなの……!
こんな演奏されて……! ボクに……!
どうしろっていうんだよ……!
<律は両手で自分の顔を覆う>
律:音楽は……嘘を、つかない……?
<律はその場に蹲る>
律:……嘘つき……!
「少女遊星」第五話 終
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