「少女遊星」・四
作者:ススキドミノ


瀬名 雪乃(せな ゆきの):19歳。西東京芸術学園。美術学部2年。油絵専攻。【回想】15歳。高校一年生。
白沢 律(しらさわ りつ):20歳。西東京芸術学園。音楽学部、ピアノ科2年。【回想】15歳~16歳。高校一年生~高校二年生。
晴海 万智(はるみ まち):20歳。西東京芸術学園。音楽学部、ピアノ科2年。【回想】15歳~16歳。高校一年生~高校二年生。
園部 愛香(そのべ まなか):21歳。西東京芸術学園。音楽学部、声楽科3年。【回想】17歳。高校三年生。



※2018年1月18日 台本使用規約改定(必読)




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 ◆





雪乃N:音は、光。匂いは、記憶。
    自分と世界の繋がりは、眼の前のキャンバスと、この小さな寮の部屋だけ。
    瞼を閉じて、大きく深呼吸をする。
    身体を揺らす心臓の音、首を伝う汗の感触、窓の外から聴こえる虫の鳴き声、香ってくる生暖かい空気。
    回っている扇風機の囁きに混じって、時計の秒針さえも直ぐ側で響いている。

 <雪乃は額の汗を拭う>

雪乃N:ああ、もう夏も本番だ。
    人生は流れていく。時間は平等に、無慈悲に過去の自分を置き去りにしていく。
    だからこそ人は、思い返そうとする。
    けれど、一歩過去に踏み込むと、意識は沼のように沈み込む。前へ進もうとする気力を奪っていく。
    それでも……重い足を引きずってでも、過去を振り払わなくてはならない瞬間があるのだと思う。
    それが――誰かにとってのあの夏の日なのだ。

 <雪乃はペットボトルの水を飲み干す>

雪乃N:それが、私にとっての、あの夏の日なのだ。


 ◇


 【過去の回想】
(※このト書き以降は回想終了の指示まで過去の物語が進んでいく)


 ◆


 <高校一年生の雪乃は、女学院の音楽室を訪れる>

雪乃N:高校一年生の夏。
    自分の置かれている環境のことも、自分自身のことも何もわからなくて、ただ毎日を過ごすことに必死だった。


雪乃:……ピアノ?


雪乃N:その日の放課後、置き忘れていたプリントを取りに美術準備室に向かっていると、音楽室からピアノの音色が聞こえた。
    旋律に導かれるように、私は音楽室のドアを開けた。


 <雪乃は音楽室のドアを開く>


雪乃N:音楽室に入った瞬間――息ができなくなった。
    ピアノの前でしなやかな指を踊らせている、美しい女生徒。
    その姿を見た瞬間に、私の指先の一つすら自分のものでは無くなってしまった。
    心の隙間に憂いを落とすような主題。静かにかき乱されるような旋律。
    窓から差し込む黄昏が、ピアノとその人を包み込むと、その空間だけがまるでこの世のものではないような神聖さを感じさせた。
    私は瞬きも忘れて、ただ聴き入っていた。
    魂すら、抜かれてしまったように。


愛香:……ご清聴、ありがとうございました。

雪乃:……え。

愛香:今お聴きいただいたのは、ショパンのバラード第四番、ヘ短調になります。
   恩師と親友の死の経験から立ち直ったショパンが書き上げた、命の光と影、悲しみと儚さを感じさせる傑作です。
   私は数年前からこの楽曲に取り組んでおり、去年のピアノコンクールにて最優秀賞を取った思い出深い曲でもあります。

 <愛香は雪乃を見て微笑む>

愛香:ごめんなさい。急に変な話をして。

雪乃:い、いえ! 私の方こそ、勝手に入っちゃって……!

愛香:ううん。観客が居てくれて良かった。
   今日の演奏が、私にとってのラストコンサートだったから。

雪乃:ラスト……?

愛香:というわけで! 私、園部愛香は、本日をもってピアノを引退します!

 <愛香は椅子から立ち上がると、雪乃に歩み寄る>

愛香:そのリボンの色はぁ……新入生だ。
   改めまして、私は三年の園部愛香。
   私のピアノの最後の観客さんのお名前は?

雪乃:わ、私は――


雪乃N:夏の騒がしさとは無縁の、クーラーの効いた放課後の音楽室。
    私は――愛香さんと出会ったんだ。


 ◇


 <栗澤ピアノ塾>
 <高校一年生の万智は、塾のエントランスに座って、電話をしている>

万智:(電話口に)……うん。ちゃんと時間通り。
   わかってるよ……! うん……。
   ねえお母さん。本当、緊張してるから、電話切っていい?
   するよそれは……! だって、あの栗澤瑠璃(くりさわるり)のピアノ塾だよ?
   何で私なんかが呼ばれたのかわかんないもん……!
   あーもう……! 別に自信がないっていってるわけじゃなくて……!
   これから世界的ピアニストに教わるって考えたら、弱気にもなるじゃん……!
   とにかく……! 前のレッスンが何時に終わるかわかんないし、もう切るから……!
   うん。遅くなったらまた電話する。

 <万智は電話を切ると、鞄の中に携帯をしまう>

万智:(息を吐く)ふー……。大丈夫……私は大丈夫……。

 <エントランスに律が入ってくる>

律:……あれ? 次の人?

万智:あ……はい。

律:もう来てたんだ、早いね。

万智:……嘘、白沢律さん……?

律:え? 君と知り合いだったっけ?

万智:あ! いや……! 知り合いってわけじゃなくて……。
   一方的に知ってるだけっていうか……。

律:ふーん、そっか。

万智:白沢さんも、栗澤ピアノ塾だったんだ……。

律:ん? ああ、うん。まあ。

万智:そっか。……えっと、今はレッスン中じゃないの?

律:うん。休憩時間だよ。

万智:そうなんだ。

律:もう戻らないと。

万智:あの……!

律:何?

万智:去年の学生コンクール!
   決勝のショパン……すごく良かった……!


万智N:やばい。


万智:(早口で)わかってるとか偉そうなことは言えないけど……!
   もちろんテクニックだってすごくて、ミスしない自信があるとかもあるだろうけど!
   それだけじゃなくて、その、音と踊っているっていうか……!
   風景まで浮かぶような感じがあって!
   それで――すごい……その……ファンに、なって……。


万智N:早口で何いってんの、私。
    絶対引かれる。こんなの。


 <律はじっと万智の顔を見つめる>

律:……ありがとう。

万智:あ、いや……。

 <律は微笑む>

律:ボクにとってね、ピアノは自分と音楽を繋ぐ言葉みたいなものなんだ。
  誰かのために弾くなんて、考えたこともない。
  だから、すごく勝手だなって思うし……変わらないといけないって周りから言われてる。

万智:……そう、なんだ。

律:だから、思うよ。
  そうやってボクのピアノから受け取ってくれる、君がすごいんだなって。

万智:え……?

律:君のピアノを聴いたら、ボクも君に感想が伝えられるかな……。
  ちょっと、興味あるな。
  ここにいるってことは、いいピアノを弾くってことなんだろうし。

万智:……あ。

律:じゃあね。

 <律はスタジオに戻っていく>

万智:……すごい……。すごいすごい……!
   あの白沢律さんと……話しちゃった……!

 <万智は自分の手のひらを見つめる>

万智:そっか……。私も、同じところに来たんだ。
   頑張ろう……! 絶対……!


 ◇


 <放課後・美術室>
 <一人デッサンをしている雪乃に、愛香が近づく>

愛香:だーれだ!

雪乃:……あ。え?

愛香:ふふふー、正解は愛香先輩でしたー!
   音楽準備室から見えたから声かけちゃった。
   瀬名さん、何してるの?

雪乃:そ、その……部活で……。

愛香:へー! 美術部だったんだ!

雪乃:は、はい。

愛香:居残り? うちの美術部って結構厳しいとか?

雪乃:そういうわけじゃないんですけど……。
   今日、課題で出されたデッサンが、どうしても気に入らなくて……。
   帰る前に、もう何枚か、と思って……。

愛香:ふぅん……そっか。

 <愛香は近くの椅子に座る>

愛香:ね! 瀬名さん。
   もし邪魔じゃなかったら、観ていていい?

雪乃:え?

愛香:あなたが描いている姿を、見ていてもいいかな。

雪乃:あ、いや……ど、どうして、ですか?

愛香:んー……そうしたいから――っていうのは何か答えになってないもんね。
   ……そうだなぁ……必要だから?

雪乃:必要……?

愛香:うん。今の私に必要なこと。
   お願い! 絶対邪魔しないからー!
   ね! ね! いいでしょー!?

雪乃:は、はい。

 <雪乃はじっとデッサンを始める>
 <愛香は微笑みながらその後姿を見つめている>


 ◇


 <日が落ち始めた通学路、雪乃と愛香は並んで歩く>

愛香:瀬名さんって、買い食いとかする?

雪乃:いえ、全然。

愛香:あんまり好きじゃないとか?

雪乃:お小遣い、あんまりなくて。
   あったら画材に使っちゃうので……。

愛香:そっか、美術ってお金がかかるもんね。
   じゃあ! 私が奢ってあげるから、何か食べて帰りましょ!

雪乃:そ、そんなの悪いです……!

愛香:むしろ、今日のお礼ってことでどうかな?

雪乃:お礼?

愛香:デッサン、描いてるところ見せてくれたでしょ?

雪乃:そんなの、私は何も……。

愛香:デッサンが気に入らなくて、もう一枚描く!

 <愛香は駅へと向かう階段へ小走りで駆けていく>

愛香:(振り向く)でもきっと! それだって満足いかない、でしょ?

雪乃:……はい。なかなか、満足はできません。

愛香:こうやって少し走ったつもりになって、でも振り返るとこれくらいしか進んでないんだーって思う。
   努力ってこういうちょっとしたことの積み重ねだけど……でも、自分から見える景色はしっかりと変わっている、みたいな。

 <愛香は雪乃の顔を覗き込む>

愛香:瀬名さんって、絵を描き始めてどれくらい?

雪乃:えっと……三年くらいです。

愛香:自分には才能があるって思う?

 間

雪乃:わかりません。
   でも……天才ではないのは、わかります。

愛香:うん。そうだよね。
   天才は、自分でわかるものだから。

 <雪乃の隣に愛香は並ぶ>

愛香:瀬名さんは自分が天才ではないとわかっていても、何度も書き直す。
   そういう姿を見ていると、勇気をもらえるの。
   私も頑張らなくちゃって。

 <雪乃は耐えきれないといった風に吹き出す>

雪乃:(吹き出す)ふ、ふふふふ……!

愛香:ん? 何か変なこといったかな?

雪乃:いや……! 変っていうか……!
   ずっと変なこと……! ふふふふ……!

愛香:えー! なになに!? どこが変だった!?

雪乃:だって……! 園部先輩って、とっても綺麗で……その……。
   優しい人だと思っていたから……。
   こんなに意地悪なことを言われるとは思わなくて……!

愛香:……へ?

 <雪乃は目元に溜まった笑い涙を拭う>

雪乃:そうですね。私、才能もないし、三年描いててまだまだです。

愛香:あ、その……ごめん、なんか意地悪に聞こえちゃったかな……!
   そういうつもりは全然なかったんだけどなぁ……。

雪乃:……先輩。私からも聞きたいことがあるんですけど。

愛香:……何かな?

雪乃:ピアノ、辞めるって言ってましたよね。

愛香:あー……うん。あの日が最後だったんだ。
   瀬名さんが聴いてくれていたピアノが、ラスト・コンサート。

雪乃:先輩にとってピアノは――辞めるくらい大切なものだったんですよね。

 <愛香は驚いたように瞳を見開く>

愛香:……どうしてやめるんですか、とか、聞かれると思ったけど。

 間

愛香:……ふふふ! あははははは!
   わかった! その辺の話はまた今度ね!

雪乃:あ、え? 答えてはもらえないんですか……?

愛香:気が変わったのー! ほら! 甘いもの食べに行こう!

 <愛香は雪乃の手を取る>

愛香:雪乃! あ、雪乃って呼んでいい? いいよねー雪乃ー!

雪乃:うわ、ちょっと……!

愛香:私のことも愛香って呼んでいいから!
   いくよー! レッツゴー!


 ◆


 <栗澤ピアノ塾・ロビー>
 <律は自動販売機の前にぼーっと立ち尽くしている>

律:(つぶやく)……コーダからの連符……第二主題の入り……。
  トリルをもっと滑らかに……?

 <律は身体を震わせる>

律:ふざけんな……! もう嫌だ……!
  なんなんだよ! 自由曲の片方くらいボクに選ばせてくれたっていいじゃないか!
  つまんない……! つまんないつまんないつまんない!
  (ため息)……クソッ……。

 <律は自販機のボタンに手を伸ばす>
 <その手の腕は赤く腫れている>

律:何……飲もうかな……。


律N:自販機のボタンに指を添えて、思った。
   このまま思い切り力をいれて、指が折れ曲がったら。
   もう、弾かなくていいのかな?


律:ん……く……!


律N:力を込める。痛い。痛い。痛い。
   指が震えている。
   ああ、こんなときでも片隅にはピアノがある。
   弾きたい。弾きたい。思ったように。
   あの頃みたいに――

 <律は指を離す>

律:くっ……!

 <律はその場に座り込む>

律:(息切れ)はぁ……! はぁ……! はぁ……!
  く、そおおおおお!

 <律は自販機から缶を取り出すと放り投げる>
 <缶は転がり、自動ドアへとぶつかる>

万智:……白沢、さん?

律:……あ……。

 <律は立ち上がる>

律:ごめん。当たってない?

万智:う、うん。
   どうしたの……?

律:……別に。

万智:その腕……。

 <律は腕を隠す>

万智:腫れて――

律:いや。なんでもない。

万智:それ、冷やしたほうが――

律:なんでもないって言ってるだろ!

 <律は俯く>

律:ボクが上手く弾けないのが悪いんだから……。
  そうでしょ……?

万智:……え?

律:だから、叩かれるんだ……。
  悪いのはボクだ……! そうなんだよ……!

 <律は転がった缶を拾い上げる>

律:……もう、戻らないと……。

万智:ちょ、待って!

 <律は歩きさる>


 ◇


万智N:白沢さんの様子が気になった私は、家に帰ってから栗澤ピアノ塾のことを調べた。
    すると、栗澤塾から成功したピアニストのインタビュー記事を見つけることができた。
    そのピアニストは塾生時代、栗澤先生に手を叩かれたことがあると。
    しかし、インタビューの中で、そのことは美談として語られていた。
    期待と情熱の込もった、当時の自分にとって必要な指導だったのだと。
    記事ではこう締めくくられていた。
    「痛みや恐怖も糧にし、情熱へと変換する。それが本気で目指すということなのだ」


万智:……何よそれ……。意味わかんない……!


万智N:栗澤先生は、私にはとても優しい人だ。
    もしかすると、栗澤先生は才能がある生徒にはそういった指導法を取るのかもしれない。
    自分で言うのは悔しいけれど、私と白沢律との間には大きな才能の壁があるのは間違いない。
    大人と比べても大きな手、技術も素晴らしく、圧倒的な表現力と世界観を併せ持っている。
    あきらかな天才である彼女だからこそ、栗澤先生は――白沢さんを叩く……?


万智:そんなの絶対、間違ってる……!


万智N:白沢さんがこれで上手くなったとしても、私はそんな指導は間違っていると思う。
    でも――だとしてもどうする?
    体罰問題として告発する? 私が? そんなこと、無理だ。
    考えるだけで震えが止まらない。
    栗澤先生の経歴にも傷がつくはずだ。
    どれだけの人に睨まれるだろう。
    栗澤先生だけではなく、塾出身のピアニストも激怒するだろう。
    そもそも相手は大人なのだ。いくら言葉で訴えたところで、揉み消されて終わりじゃないのか。
    音楽業界は横のつながりが密接だと聞いたことがある。
    問題を起こした人間だとなれば、この先ピアニストになる夢を諦めなきゃいけないかも。
    ……そもそも白沢さんはそれを望むだろうか?
    嫌だったら本人が言うんじゃないか?
    私の勘違いかもしれないし――でも。


万智:(泣きながら蹲る)……どうしよう……。


万智N:正義感だけじゃ、無理だ。
    周りにも頼れない。
    私なんかに何もできない。
    でも、忘れられない。
    あの日の白沢さんの顔が。
    これで白沢さんがもっと上手くなったら――


万智:……そうだ。
   白沢さんが……負けたら……!

 <万智は涙を拭う>

万智:私が、白沢さんにコンクールで勝ったら……!
   指導の仕方が間違ってるって証拠になる!
   中学までは、白沢さんと同じステージで弾いたこともなかった私が!
   勝ったら……! 絶対におかしいってことだもん!
   その時に言うんだ! 栗澤先生は、間違ってますって……!


万智N:考えると怖くて、立ち向かう選択肢から逃げて、ようやく思いついた。
    それしかないって、本気で思う。
    だから、弱い自分を捨てるために、本気になろう。
    先ずは栗澤塾を辞めよう。
    それから誰よりも練習して、誰よりも考えて、上手くなるんだ。
    全部を賭けたって届かないかもしれない。
    相手は同年代では知らない者の居ない天才だ。
    今日からもう、頭を切り替えるんだ。
    私の目標は――白沢律にコンクールで勝つことなんだから。


 ◆


雪乃N:夏が過ぎていく。


 <雪乃は教室で文化祭用の看板を描いている>

雪乃:……うん。いい感じ。

愛香:ゆーきのっ。

雪乃:……あ。

愛香:あ、それ。この間言ってた?

雪乃:はい。クラスの出し物の看板です。

 <愛香は看板をじっと見つめる>

愛香:……うん。いいね!
   雪乃の絵は、色がすごく綺麗。

雪乃:ありがとうございます。
   ……愛香さんはどうして学校に?

愛香:どうしてって?

雪乃:三年生の皆さんは、受験もあるから……。
   夏休み中はあまり学校に来ないって聞いたので。

愛香:確かに! 普通に考えたらそうかもね!

雪乃:じゃあ……。

愛香:文化祭のためじゃないから。

 <愛香は机に腰掛ける>

愛香:私、夏休み明けの学生コンクールに出ようかなって思ってるの。

雪乃:え? それって、ピアノですか?

愛香:ううん。ピアノはもう辞めたから。
   出るのは声楽の部。

雪乃:声楽……。歌を歌うってことですよね。

愛香:そう。

雪乃:……あの。そういえば、なんですけど……。

愛香:何?

雪乃:愛香さんがピアノ辞めたのって――

 <愛香は雪乃の唇に指を添える>

愛香:しー。

雪乃:……あ……。

愛香:それじゃ、練習戻るね!
   雪乃も懇詰めすぎないように。

 <愛香は教室を出ていく>

雪乃N:愛香さんは、夏の太陽みたいだ。
    眩しくて、明るくて、側に居ると全身が暑くて。
    私は簡単に、雪のように溶かされてしまう。
    でも……愛香さんは、出会ったあの日から一度も、ピアノのことを話さない。
    そういうときの愛香さんは、太陽が夕闇に沈んでいくような、そんな顔をする。


 ◆


万智N:夏が過ぎていく。


 <万智は空の皿が入ったお盆を廊下に出す>

万智:お母さん。夜食、ありがとう。
   ……うん。大丈夫。深夜は弾かないから。
   譜面読みだけ。

 <万智は部屋に戻る>

万智:……譜面の書き込み……写さないと。


万智N:印刷したばかりの譜面を机の上に広げる。
    書き込みすぎて黒くなった古い楽譜から、今の自分に必要な部分を抜き出して、写していく。
    何度も繰り返してきた作業。
    もう癖になっている作業。
    一つずつ、課題を塗りつぶしていくことで、前に進める。
    大人から何度も言われ続けて、その度になんとなく流してきたことが、今は何の疑いもなく自分の中に染み込んでいる。
    今ならわかる――努力は、情熱なんだ。


万智:……ショパン……。そっか……ショパンをやるんだ。


万智N:脳裏でいつも響いている、あのショパン。
    自分と同じ、当時高校一年生だった少女のピアノ。
    彼女のピアノを観客席から聴いていたあの時から一年が経ち、私は学生コンクールの決勝に進んだ。
    もう、ただのファンでは居られない。
    憧れだった彼女は今、私の戦うべき相手になった。


万智:私は……『舟歌(バルカロール)』を、弾くんだ。

 <万智は楽譜を抱きしめる>

万智:物語性があって、華やかな曲は得意だもん!
   技巧じゃ遅れをとってても、表現力なら負けない!
   でしょ!? だよね! うん! 絶対そう!

 <万智は立ち上がると布団に倒れ込む>

万智:……負けないよ。白沢さん……。


 ◆


律N:夏が過ぎていく。


 <一人きりの部屋、律はピアノの前に立っている>

律:……お辞儀は深く。長く。丁寧に……。


律N:視界の隅にはビデオカメラがこちらを写している。
   栗澤先生に持たされたものだ。
   弾いている姿を自分で確認しなくてはならないと言われた。


律:……座ってからはゆっくり椅子の高さを調節。
  肩の力を抜く……。


律N……姿勢や、外からの目線に気をつける。
  弾いている姿も審査員の心象に作用するから。


律:……自由曲……弾き初めは優しいタッチで……。
  第一主題への期待感を高め――


律N:魅せるピアノ。
   譜面を組み合わせる、コンクールのピアノ。
   ボクにはわからない世界だったから、従った。
   今までの自分から変われるかもしれないって。
   この痛みや苦しみの先に、自分を変えるものがあるかもしれないって。
   そう、信じてきた。


律:……くだらない。


律N:結局何も、変わらないじゃないか。


律:くだらないよ、こんなの。


律N:いくら弾いたって同じだ。
   ピアノを通じて、ボクの中から音符がこぼれ落ちていくだけだ。
   もう誰も、どの音もボクの言うことをきかない。
   一緒に遊んでほしいと願っても、語りかけてくることもない。


律:……ははは……。
  そうだ……わかった。
  きっと……ボクは……もう……!


律N:ピアノが――嫌いだ。
   そう頭の中で呟いた瞬間に、すべてのことがどうでもよくなった。
   辛かった気持ちも、痛みも、すべてが真っ白な部屋の中みたいに、穏やかで、静かで、とても虚しい。
   ……でも、これでようやく――


律:これで……自由になれた。

 <律はピアノの蓋を閉じると、悲しげに微笑む>


 ◆


愛香N:夏が過ぎていく。


 <雨・愛香の住むマンションの一室>

愛香:あー……これは本格的に風邪かな……。

 <愛香はぼうっとした顔で天井を眺める>

愛香:……こういうときって、どうするのが正解なんだっけ。

 <愛香はふらつきながら立ち上がる>

愛香:……熱、測らないと。
   (躓く)ッ……ったー……!

 <カーペットの上で、愛香はゆっくりと仰向けに寝返りをうつ>

愛香:……こういうとき、どうするのが……正解……?

 <静けさに満ちる部屋の中、しばらくの間がある>

 <ふと、部屋のチャイムが鳴る>

愛香:……チャイム……? 誰が、こんな……。

 <愛香はゆっくりと部屋の扉を開ける>

愛香:……はい?

雪乃:……あの。

愛香:……雪乃?


 ◇


 <雪乃は愛香の部屋のリビングの机に、コンビニのビニール袋を置く>

愛香:……雪乃、どうして……その……。

雪乃:愛香さん、昨日の夜、ちょっと熱っぽいって言ってたじゃないですか。

愛香:え……それだけで?

雪乃:はい。

愛香:ちょ、ちょっと待って……!
   それだけでいきなり突撃してくるかな……!?

雪乃:え……。だって、愛香さんって一人暮らしだって聞いてたので……。
   何かと入り用じゃないかなって……。

愛香:ふ、ふふふふ……!
   あははははは!

雪乃:……なんですか。そんな笑います……?

愛香:……雪乃っ。

雪乃:は、はい。

 <愛香は机に肘をついて微笑む>

愛香:……ありがとう。

雪乃:……あの、いや……。
   別にその……そんな、大したことは……。

愛香:あー、照れてる。かーわいいー。

雪乃:だからその……!

愛香:……ねえ。少し、お話ししようか。

雪乃:え? 体調が悪いなら寝てたほうが――

愛香:やーだー。だって治るまではどうせ寝たきりなんだよ?
   いる間はお付き合いしてくれてもいいじゃない……!
   愛香さんが可哀想だとは思わないの……!?
   薄情者ー、えーん……!

雪乃:(ため息)……ちょっとだけですよ。

愛香:やったー!

雪乃:せめて、ソファで横になってください。

愛香:はーい!

 <愛香はソファに座り直す>

愛香:じゃあ……そうだなぁ。
   雪乃の聞きたがってた話、しようか。

雪乃:聞きたがってた話、ですか?

愛香:雪乃と知り合ったばかりのときに、雪乃が聞いたでしょ?
   『私にとってピアノは、辞めるくらい大切なものなのか』って。

雪乃:……はい。

愛香:……雪乃は絵を描くのが好きなのよね。

雪乃:……そうですね。

愛香:絵を描くのは、手段だって思ったことはある?

雪乃:手段……?

愛香:そう。

雪乃:……きっと何かの手段ではあると思います。

愛香:あー……曖昧な質問してごめんね。

雪乃:あの、私……意図を汲み取れなくて……。

愛香:ううん。ありがとう。
   そうやって言葉を返してくれるだけで、私も話しやすくなるから。

 <愛香は部屋の隅に置かれたピアノに目を向ける>

愛香:……あのピアノは、お祖母様のものなの。

雪乃:そうなんですね。

愛香:お祖母様は幼い頃ピアニストになることを夢見ていたけれど、当時は戦争が終わったばかりで、ピアノどころか音楽を志す機会すらなかった。
   だからこのピアノは、大人になってからようやく手に入れた宝物だって言ってた。

 <愛香はピアノを見つめて目を細める>

愛香:お祖母様は、そんな大切な宝物を、まだ小さかった私にくれたの。
   私は、お祖母様の宝物を弾けるようになりたくて、ピアノを練習するようになった。

雪乃:……はい。

愛香:お祖母様は、私がピアノで曲を弾くたびにすごく喜んでくれたんだ。
   喜んでいる顔が見たくて、私はどんどんピアノにのめり込んだ。
   初めてコンクールで一位を取ったときも、交響楽団のコンサートに呼ばれて弾いたときも、お祖母様は泣きながら喜んでくれた。
   お祖母様が喜ぶんだったら、どんな練習も辛いとも苦しいと思ったこともなかった。
   だって、私にはそれだけだったから。

雪乃:……それだけ……?

愛香:私に愛をくれたのは、祖母だけだから。

 <愛香はソファに身体を預けると、腕で額を覆う>

愛香:でも……お祖母様、死んじゃった。

 間

愛香:雪乃と合った日のひと月前にね。
   ……誰だって年には勝てないし、本人も私も覚悟はしてたから、それはいいの。
   でもね、お祖母様を見送ってから……しばらくして気づいた。
   ……私には、理由がなくなったんだって。

 間

愛香:ピアノを弾く理由が、もうないんだって。

雪乃:……それで、ピアノを……。

愛香:(吹き出す)うん。単純でしょ。
   私にとってピアノはただの手段だったってこと。
   だから、雪乃が居残ってデッサンしているところを、見たいって思ったんだ。
   芸術って、理由がなくてもできることなんだって確認したくて……。
   結局、私にできることなんて音楽以外にないから、今度は歌を始めたんだけど――あー……それはどうでもいいかな……。

 <愛香はうつろな瞳で天井を見つめる>

愛香:あの時、その場で雪乃の質問に答えなかったのはね……『辞めるほど大切だったもの』なんて、私にはないから。
   簡単に切り捨てられてしまう程度のことなの。
   本当、簡単なことなんだから……。
   私ってなんの価値もない人間だから……。
   私のピアノもなんの価値も――

雪乃:違います。

愛香:……え?

 <雪乃は涙を浮かべながら愛香を睨みつけている>

雪乃:絶対、違います。そんなの。

愛香:……なぁに? 怖い顔して――

雪乃:私……知りません……!
   愛香さんのこと、なんにも……!
   愛香さんの生い立ちとか……! ご家族との関係とか! 私にはわかりません……!
   今聞いたことも、多分、きっと、本当のことはわかってないんだと思います……!
   愛香さんはいつも私にはわからないことは話しませんから……!
   私には、明るい姿しか見せませんから……!
   だから今、体調が悪くて、だから言ってくれてるのかもしれないって思ってます……!
   でも……! 絶対、違うって! わかってることが、あります……!

愛香:雪乃……。

 <雪乃は愛香の手を握る>

雪乃:貴女の演奏を、聴いたんです! 私は……!

愛香:……雪乃……。

雪乃:貴女のピアノを聴いたんです……!
   人生が変わるくらいの出会いだったんです!
   今でも鮮明に思い出せるくらい……!
   綺麗で! 苦しくなるくらい心地よくて!
   ピアノのことはわからない……! でも!
   愛香さんに、価値がないなんて……! 嘘なんです……!

愛香:……ふふふ……。純粋だね、雪乃は……。

雪乃:やめてください……! そうやってごまかすのは……。
   私、本気で言ってます……!

愛香:私だって本気だよ。

雪乃:嘘です。

愛香:馬鹿ね、雪乃。

 <雪乃は愛香に抱き寄せられる>

雪乃:……愛香、さん……。

愛香:雪乃が悪いんだよ……。

雪乃:愛香、さん……?

愛香:雪乃が……こんな空っぽの部屋に来るから……。

 <愛香は雪乃の髪に顔を埋める>


 ◆


 【回想終了】


 ◇


 <雪乃の部屋に、万智が入ってくる>

万智:雪乃、ごめん。今いい?

雪乃:万智さん。はい、大丈夫ですけど。

万智:ほら、集中して描いてたらその……邪魔かなって。

雪乃:ちょうど考え事してたところです。

万智:そっか……。
   あー……ちゃんと水、飲んでる?

雪乃:飲んでます。
   ……というか、本題は?

万智:え?

 <雪乃はにやつきながら万智の顔を覗き込む>

雪乃:何か報告することがあるんじゃないですかー?

万智:う……。ま、まあ! そうなんだけどね……。

 <万智は携帯の画面を雪乃に見せる>

万智:これ……。

雪乃:来ましたね……! 学内コンクールの予選の結果……!
   えーっと――

 <雪乃は画面を指でなぞる>

雪乃:本戦出場、ピアノ科二年……晴海万智!
   やったじゃないですか! 万智さん!

万智:あー、うん。やった。

雪乃:え……反応薄くないですか……?

万智:だって当然だと思ってたから。

雪乃:私の喜び返してください……!

 <万智は真剣な顔で雪乃に携帯を手渡す>

万智:名前、見て。

雪乃:はい? なんですか……?

万智:予選はブロックが別れてたから、私も知らなかったんだけど――


雪乃N:すぐ、見つけた。


万智:最近になってピアノ再開したばっかりらしいし……今年は出て来ないと思ってたんだけどさ。


雪乃N:本戦出場、ピアノ科二年、白沢律。


万智:ま……そういうことみたい。

雪乃:……そう、ですか。

 <万智はまっすぐに雪乃を見つめる>

万智:雪乃。

雪乃:あ……はい。なんですか……?

万智:勝つよ。

雪乃:……え。

万智:私、勝つからね――白沢律に。




「少女遊星」第四話 終






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