「少女遊星」・三
作者:ススキドミノ
瀬名 雪乃(せな ゆきの):19歳。西東京芸術学園。美術学部2年。油絵専攻。
白沢 律(しらさわ りつ):20歳。西東京芸術学園。音楽学部、ピアノ科2年。
晴海 万智(はるみ まち):20歳。西東京芸術学園。音楽学部、ピアノ科2年。
園部 愛香(そのべ まなか):21歳。西東京芸術学園。音楽学部、声楽科3年。
※2018年1月18日 台本使用規約改定(必読)
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◆
雪乃N:夏は、溶けるように進んでいく。
吹き付ける暑い風と、照りつける太陽の光を避けるように、濃い影を選んで歩いていると、あっという間に夜になってしまう。
降り注ぐような音や、青々と脳裏に焼き付く匂いに背を押されながら。
何か新しいことが、素敵なことが始まるような、そんな予感に誰もが胸を踊らせている気がして。
夏は――焦ってしまう。
自分だけが、取り残されてしまっているように感じてしまうから。
<雪乃はキャンバスに筆を走らせる>
雪乃N:色の濃淡だとか。線の置く位置だとか。
構図だとか、創造性だとか。
挑戦だとか、発想だとか――教えの言葉ばかりが胸に積み重なっている。
きっと私には、総てが足りないとわかっていても、その言葉が自分を成長させるとわかっていても――
自分の身体が、心が、言葉が置いていかれてしまうような。
焦燥は熱を忘れさせ、私は何も感じないままに、焦がされていく、
<雪乃の首筋に冷たい感触が触れる>
雪乃:ひっ!
<首を押さえて振り向くと、ペットボトルを持った万智が、不機嫌そうに立っている>
雪乃:ま、万智……さん……?
万智:雪乃……何やってんの?
雪乃:何やってんのって……え?
万智:言っとくけどねぇ! 何回もノックしたから!
それで開けてみたらとんでもなく蒸し暑い室内で!
ボーっとしながら絵を書いてる馬鹿がいるでしょ!?
こっちがいくら声かけても反応ないし!
<万智は濡れたタオルを雪乃の額に押し付ける>
雪乃:つ、めた……!
万智:全然汗かいてないし……。
とりあえずこれ飲んで。
二本とも。
雪乃:あ、いや――
万智:熱中症かもしれない。
死ぬわよ。それとも、死にたいわけ?
雪乃:は、はい……ごめんなさい……。
万智:謝るくらいなら――ていうか……!
なんで窓閉めきって作業するわけ……!
っていうか……! 今日くらい暑いんだったらクーラーくらいつけなさいよ……!
雪乃:作業始めたときは……そんなに暑くなかったから……。
万智:それ、いつよ。どうせ朝方からずっとこの調子でやってたんでしょ。
もう昼過ぎよ? その調子だとご飯も食べてないだろうし――あああもう……!
どんっどんイライラしてくる……!
雪乃:ご、ごめんなさい……。
万智:いいから水分とる! クーラー利くまで、タオルで首筋とか脇の下とかを冷やして!
雪乃:は、はい!
万智:扇風機は? 持ってる?
雪乃:あ、そっちの物置に――
万智:出すわよ。
<万智は物置から扇風機を引っ張り出す>
万智:昼ごはんでもどうかと思って声掛けに来たけど……。
まさかこんなことになってるとは思わなかった。
雪乃:あ、はは……本当、助かりました。
自分では全然気づいてなくて……。
万智:集中して周りが見えなくなる――なんて、芸術やってれば良くある話だし、私も人のこと言えないけど。
でも、最低限自分でケアしないと、本当に死ぬわよ。
雪乃:はい。気をつけます。
<万智は雪乃に向けて扇風機を回す>
雪乃:あー……涼しい。
万智:まったく……。
<万智はキャンバスに目を向ける>
万智:……綺麗ね。
雪乃:はい?
<万智は雪乃の絵に目を向ける>
万智:その絵。まだ途中なんだろうけど……。
雪乃:あ。えっと……ありがとう、ございます。
万智:あー……ごめん。こういうのって嫌だったりする?
雪乃:いや、全然そんなことは……!
万智:うわ、きっつー……軽々しく触れちゃって、ごめん。
自分は練習中の演奏を褒められたらイラッとする癖に……こういうところ、本当ダサい。
<雪乃はペットボトルの麦茶を煽る>
雪乃:(息を吐いて)……あの……じゃあ……。
詳しく……聞いても、いいですか?
万智:え?
雪乃:どこがその……綺麗って思ってもらえました?
万智:あ、えっと……色、かな。
雪乃:どの色とか……わかります?
万智:うん……私は、真ん中に置かれてる青色が、綺麗だなって思った。
雪乃:……青……。
万智:周囲に置かれている明るい色よりも……この絵は暗い青が目立ってるなって思ったの。
細かなところはわからないけど、ただ単純に。
雪乃:……ありがとうございます。
万智:いや……別に、素人の言うことだからそんなに気にしないで。
雪乃:……初めて万智さんと話したときのこと、覚えてますか?
万智:え? ああ、うん、もちろん覚えてるけど。
雪乃:この絵には、ストーリーが無いんです。
万智:ストーリー?
雪乃:はい。私、語ったじゃないですか。
初めて風景画を観た時に、共有できた感情や、感動について……。
でもそれ、自分では表現できたことがなくて。
<雪乃はペットボトルを頬に当てる>
雪乃:絵を描いている時、私……空っぽなんです。
だから、わからなくなります。
何を描きたいのか……何を伝えたいのか……。
そして、放り出されます。今自分は、何をしているんだろうって……。
万智:……それ、少し前の私と同じ。
雪乃:万智さんのピアノ、素敵じゃないですか。
万智:そう言ってもらえるのは嬉しいけど……。
っていうか……雪乃の絵は、まだ完成してないじゃない。
雪乃:……え?
万智:その絵にはストーリーは無いっていったけど、今がそのストーリーの途中だったりするのかもしれないでしょ。
雪乃:……今が……?
万智:もしくは、雪乃が今まで生きてきた時間が、その絵を作ってる――とかね。
<万智は微笑みながら雪乃に近づくと、その額に手を当てる>
万智:熱、抜けた?
雪乃:あ……はい。涼しく、なってきました。
万智:そ。じゃあ、もう少し休んだら、その……手作りでよければ、ご飯――食べにおいでよ。
雪乃:……え? いいんですか?
万智:いいから誘ってるんでしょ……。
雪乃:は、はい……!
雪乃N:夏が、時間をかけて私を焦がしても――冷たい麦茶を飲めば、私の身体は冷えていく。
そんな当たり前のことに気づくまで、随分と時間がかかった気がした。
◆
<律は水の中を漂っている>
律N:水の中が怖くなくなったのはいつだっただろう。
水の中に居ると、音が聞こえなくなるのが怖くて。
音はボクにとって、大切な友人のような存在だったのに。
今は時々、その静寂を心地よいと感じてしまう。
<律は水から上がる>
律:ッふうっ……。
愛香:りっちゃん。そろそろ上がりましょう。
律:……うん。わかった。
<愛香は律に手を貸し、律はプールから上がる>
◇
<律と愛香は市営プールから出てくる>
愛香:んー! スッキリしたー!
律:プール、久しぶりに来たけど……。
愛香:楽しかった?
律:うん。結構。
愛香:なら良かった。
<二人は並木道を歩いて行く>
愛香:風が気持ちいいねぇ。
律:うん。
愛香:あっという間に、暑くなっていくね。
律:……うん。
間
律:昔から、夏が好きだったんだ。
愛香:どうして?
律:ボク、外で遊ぶのが好きだったから。
日が長く昇ってるから、遅くまで遊んでも怒られなかった。
愛香:そっか。いいね、そういう思い出。
律:愛香さんは、外では遊ばなかったの?
愛香:うーん……私は昔から、そういうタイプじゃなかったから。
家も、そういうことを許すような家じゃなかったしね。
律:あんまり想像できないんだけど……お嬢様って感じ?
愛香:そう! 箱入りのお嬢様って感じ!
律:自分で言えちゃう辺り、愛香さんだな……。
愛香:あれ? それ、褒めてる?
律:……愛香さんはさ、悲しかった?
外で遊びたいとか思ったりとかさ。
愛香:え? ううん! 正直、全然悲しいとかはなかったよ。
寧ろ、私には合ってた――かな。
律:そっか。
愛香:うん。でも……だから今、家を出て、この学園に入って……。
色々なことを体験したいなーって思う。
そして、色々なことを感じたい。
律:その一つが、今回のプールだったってわけだ。
愛香:うん! りっちゃんとプール! 楽しかったー!
<愛香は律の顔を覗き込む>
愛香:りっちゃんも楽しかったよね?
律:楽しかったって言わなかった?
愛香:一回じゃ足りないもん!
律:欲張り……。
愛香:あ! そういえば、例の話……まだ聞かせてもらってないんだけど?
律:例の話って?
愛香:来月の発表会で、マルコ・リーがうちのトップ楽団の指揮をするって発表があったじゃない!
ピアノ協奏曲のソリストを、ピアノ科の学生の中から選ぶって聞いたけど!
律:……そのことをどうしてボクに聞くわけ?
愛香:だって、発表を待つまでもないじゃない?
……マルコ・リーなら、絶対にりっちゃんを選ぶはず。
律:めちゃくちゃだな……どこからその自信が湧いてくるんだ……。
愛香:でも、そうなんでしょう?
律:……まあ、そうだよ。
愛香:やっぱりね! すごいすごい!
演目は?
律:ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第二番、ハ短調。
愛香:本当に運命的……!
マルコ・リーの演奏……あなた、気に入っていたものね。
律:うん……でもボクはもっと、時間がかかるものだと思ってた。
<律は自分の手のひらを見つめる>
律:ピアノは、毎日弾かないと、取り戻すのに時間がかかるってよく言われる。
ボクは一年間、真剣にピアノを弾くことからは遠ざかっていたから。
愛香:全く弾いて来なかったわけじゃないんでしょ?
律:それでも……上手く行き過ぎてるような気がする。
愛香:それが、怖い?
律:怖くはないよ。でも……心が追いついていかないんだ。
行き先のわからない列車に乗っている気分。
このまま、知らない場所に連れて行かちゃうんじゃないかって……それは、少し不安だよ。
愛香:行きたい場所を決めて……そこに向かうためのチケットを買って。
しっかりと荷物を詰めて、万全の用意して出発するのは、確かに安心かもしれないわ。
でも……その列車に乗れなければ、何の意味もない。
律:……ボクは、この列車に乗り続けるべきなのかな。
愛香:わからないけれど、乗らなければ見れない景色がある。
……白沢律の見たい景色は、ずっと先にあることを、周囲もわかっているのよ。
だから、あなたの背中を押す。
律:……ボクの見たい景色なんて、わからない癖に。
勝手だよ、それ。
愛香:ええ、そうね。
それは、あなたを通じて見たいという勝手な願望とも言えるもの。
律:それに応えようなんて、ボクは思えない。
誰かの為に頑張ろうなんて……そんなこと、ボクにはできない。
愛香:誰かの為に弾く必要なんて無い。
あなたは、あなたの為に弾けばいいの。
<愛香は律の手に、自らの手を絡める>
愛香:あなたのピアノに、ストーリーなんて無くて良い。
誰かの為に見せるための心なんていらない。
ただ、深く繋がればいいの――音楽と。
律N:微笑んでそう言う愛香さん手は、少し汗ばんでいた。
この冷酷で美しい薔薇のような女性(ひと)からも、熱を感じる。
吹き抜ける涼しい風の中でも、人は汗を流し、必死に息を吸う。
そのことに少し、安心する。
心なんていらない――なんて、いくら言葉にしても、ボクの心はいつも揺れ動いている。
夏の日差しは、ボクらの心を、あっさりと裸にしてしまうんだ。
◆
<万智の部屋、机の上には空になった夕食の皿>
<万智はゆっくりとピアノから手を離す>
万智:(息を吐く)
雪乃:(手を叩く)
万智:ご清聴ありがとう……。
雪乃:いえ、こちらこそ……! 素敵な演奏でした。
万智:それで……その、どう思う?
雪乃:えっと……学内コンクールの予選の曲……でしたっけ?
万智:そう。一次は課題曲だけなんだけど、二次予選からは自由曲があるの。
今の二曲は、二次予選の候補の曲なんだけど……。
<万智は楽譜を捲る>
万智:一曲目と二曲目、どっちが良いかな……。
あー……別に、音楽的にどうとか、そういう意見が欲しいわけじゃないから安心して。
その……雪乃が聞いて、単純にどっちが良かったかが聞きたいなって。
雪乃:……あの、すごく言いにくいです……。
万智:ごめん、雪乃がそういうの得意じゃないってのは、なんとなくわかってるんだけど……。
お願い。
雪乃:……どっちも……。
万智:……え?
雪乃:だからあの……! どっちも……良かったです。
万智:(ため息)ゆきのぉ……!
雪乃:でも! 本当に、率直な意見です……!
万智:そう……そうよね。
自分でも、どっちの曲も出来は同じくらいだし……。
同じくらい好きだし……練習時間も――ああああ! だから悩んでるんだけどね!?
雪乃:お役にたてなくて、ごめんなさい……。
万智:ううん、そういうことじゃない。
どっちも良いってことは、どっちを弾いたって問題ないってことじゃない。
雪乃のおかげで、それがわかったってことだし……。
うん、これで決勝の曲に集中できる。ありがとうね。
<万智は笑顔で楽譜を閉じる>
雪乃:万智さん……カッコいいですよね。
万智:カッコいいって、何が?
雪乃:決勝の曲に集中するって……万智さんは、決勝まで見据えてるってことですよね。
それって、カッコいいなって……。
万智:はぁ? 当たり前じゃない。
やるからには、一位になる以外に目標なんてないでしょ。
雪乃:あ、そう……ですよね。
万智:雪乃はないの? 目標っていうか、そういうの。
雪乃:私はそういうのは……。
万智:例えばだけど……うちの学園を受験したわけよね。
それって、一つの目標だったんじゃないの?
あなたは受かった。
それはつまり、一定の才能と努力を認められたってことじゃない。
雪乃:はい。
万智:うちを受けて、落ちた人間はたくさんいるのよ。
現役で受かったということは、何度も挑戦している人間の時間も追い越して、掴み取ったってことになる。
『芸術に順位なんてつけられない、ナンセンスだ』っていうのは、誰だって一度は思うだろうけど……。
必要なことだから、あり続けるわけで。
争うことでしか、産まれないものがあるから、それがモチベーションになったり、理由になったりするし。
雪乃:……はい。
万智:あと……これは……その……まあ……!
私が……雪乃と仲良くなってきて……その……。
もう友達だって思うから、言うんだけどさ……。
雪乃:は、はい……。
万智:……雪乃はいい加減、自分が無責任なんだって自覚するべきだと思う。
雪乃:無責任……。
万智:私自身がそうだったから思うんだけど――いつまでも、自分の世界に籠もっている人っていうのは……見てる方も、結構しんどいのよ。
<万智はピアノに触れて微笑む>
万智:っていうか……私が同じようなことで悩んでたときに、雪乃が言ったんじゃない。
『私のピアノは本物だ』って。
雪乃:……あ……。
万智:あの言葉……ものすごいんだから。
それまでは自分の中だけで完結してたことを、簡単に形にされて……大切なものにされちゃったわけだし。
つまり、雪乃は私に、とてつもない呪いをかけたってことよ。
でも、その呪いのお陰で、私はこうしてピアノの前に座ってる。
あー……何が言いたいかって……。
<万智は雪乃を見つめる>
万智:私はねえ……責任をとって欲しいのよ。
雪乃:……責任……ですか。
万智:絵を書いてよ、雪乃。
それで、勝負するの。
雪乃:勝負……?
万智:そう。芸術に総てを捧げている人達が、無数にいるこの世界で。
自分の才能と、努力で、勝負をしてよ。
こうやって強引に背中を押して、雪乃が前に進んでくれなかったら……私はあなたに恩返しができないわ。
<雪乃は、自分の手を見つめる>
雪乃:……はい。私、やってみます。
万智:……は?
<万智は驚き、目を丸くする>
万智:あ、いや……自分で言ってなんだけど、そんな素直にやるっていうと思わなかった。
雪乃:あの……。言い難いこと……言ってくれて、ありがとうございます。
私も万智さんが……その、お友達が言ってくれた言葉だから、ちゃんと響きました。
万智:うっ……! な、なんか本当……雪乃って、変。
普段はふにゃふにゃしてんのに……よくわかんないところで、急に強くなるし。
雪乃:そ、そうですか?
万智:(ため息)自覚ないんだから、たちが悪いわ……。
<雪乃は時計を見て飛び跳ねる>
雪乃:……え? ああああ!
万智:は? 何?
雪乃:今日! あの……! 知り合いの、アトリエに……!
<雪乃は慌てて荷物をまとめだす>
雪乃:い、行かなきゃ……!
万智:いや、え? 何がどうしたわけ?
雪乃:今日、知り合いのアトリエで……!
F100号のキャンバスを譲ってもらう約束してて……!
万智:場所は?
雪乃:八王子です……!
万智:えー……ちょっと待って、時刻表調べるから。
寮から駅に向かうとして――
<万智はタブレットを操作する>
万智:うん。八王子行きの特急だと……今から二〇分ある。
急いで駅に行ったって電車来ないから、とりあえず落ち着いて準備しなよ。
雪乃:そ、そうですか……!
<万智は腰に手を当てて雪乃を見つめる>
万智:っていうか、100号って……結構大きいサイズよね。
雪乃:あ、はい。今まで使ったことなくて……挑戦してみようかなって。
まだ、何を描くかは決めてないんですけど……。
でも今は……少しだけ、ワクワクしてます。
<雪乃は柔らかく微笑む>
雪乃:……勝負するって、決めたからですかね?
万智:(微笑む)あー……はいはい、開き直ると調子に乗るタイプね。
雪乃:す、すみません。
万智:キャンバス……一人で持って帰ってこれるの?
雪乃:はい。多分……ギリギリ、ですけど。
万智:大変そうだったら手伝うから、連絡して。
雪乃:いいんですか? でも万智さん忙しいんじゃ――
万智:ほらほら! 余裕あるとは言っても、駅まで距離あるんだから……!
雪乃:は、はい! 行ってきます!
<雪乃は慌てて万智の部屋を出ていく>
万智:(微笑んで)……頑張れ、雪乃。
<万智は伸びをすると、椅子から立ち上がる>
万智:……練習室、空いてるかな。
◆
<駅・1番ホーム>
雪乃:(息切れ)……間に合った……。
<エスカレーターから律が上がってくる>
<律は愛香と電話している>
愛香:『良かったー! 携帯、あったんだ。
律:うん。ロッカーに忘れてたって。
愛香:『うんうん! 私も安心したわ。
律:練習、付き合えなくてごめん。
愛香:『そんなのいいわ。プールに付き合ってくれたんだし。
律:うん。明日は、練習室でいいんだよね?
愛香:『発表会の練習はいいの?
律:あー……どうだったかな。一応、マルコに確認してみる。
愛香:『そう。わかったら教えて。
こっちは大丈夫だから、自分のことを第一優先でね。
律:うん。じゃあ、またね。愛香さん。
<律が通話を切ると、すぐ側のホームに雪乃が立っているのに気づく>
律:……え?
雪乃:……あ。
<律は雪乃に歩み寄る>
律:……久しぶりだね。
雪乃:……うん。
律:元気にしてた……?
雪乃:うん。律は?
律:ボクは――
<電車の発車ベルが鳴る>
雪乃:あ……! ごめん、私、この特急乗るから……。
律:あ。ちょっとまって――
<特急列車のドアが閉まる。車内には、雪乃と律が立っている>
雪乃:え……っと。
律:うーわ……乗っちゃった……。
<二人は顔を見合わせて吹き出す>
雪乃:ふ、ふふふふ……!
律:くくくく……!
雪乃:(笑いを堪えながら)ど、どうするの? 律……!
律:(笑いを堪えながら)いやだって……! しょうがないじゃん……!
雪乃:……あー、じゃあ。
律:……うん。そうだね。
<二人は顔を見合わせて、並んで席に座る>
◆
<西東京芸術学園・教練棟ロビー>
愛香:……あら。
万智:園部先輩。お久しぶりです。
愛香:晴海さん! 元気?
万智:はい。園部先輩もお元気そうですね。
愛香:元気元気! この時間から練習室?
万智:はい。部屋で弾くのも飽きたので。
愛香:それ、わかる。同じ環境で続けていると、煮詰まっちゃうよね。
コンクールの準備は順調?
万智:はい。順調です。
愛香:即答! 頼もしいー!
万智:自信、ありますよ。
<万智は笑みを浮かべる>
万智:私が、一位になります。
愛香:……そっか。
ふふふ……楽しみだな。
万智:園部先輩も、これから練習ですか?
愛香:うん、今日は昼間にリフレッシュしたから。
声出したいなーって思って、急いで来ちゃった。
万智:じゃあ、伴奏しますよ。
愛香:え? ……いいの?
万智:いいに決まってるじゃないですか。
練習室、どこ取ってます?
愛香:Eの8番だけど――
万智:じゃあ、お邪魔します。
<万智は部屋に入る>
愛香:ふふ……当たり前のように、雰囲気が変わった……。
面白そう……。
◆
<京王線・特急の車内>
律:本当……どうして乗っちゃったかな。
……なんか、ごめん。
雪乃:……ううん。私は、嬉しいよ。
律と話すの、久しぶりだもん。
律:……そうだね。
間
律:元気にしてた……?
雪乃:……正直、寂しかったよ。
律:え……?
雪乃:私が言うようなことじゃないかも知れないけど……。
でも、律と一緒に居れないの、寂しかった。
律:……そっか。
ボクだけだったらどうしようとか、思ってた。
雪乃:そんなこと、あるわけない。
律:ああ……そんなことを面と向かって言ってくる感じ……。
雪乃だなって思う。
雪乃:律の前だと、嘘つけないから。
律:本当……結構残酷だよね、雪乃って。
雪乃:そうだね……ごめん。
律:いや……責めてるとかじゃないから、勘違いしないで。
雪乃:うん、わかってるよ。
<雪乃は髪を耳にかける>
雪乃:律は……元気にしてる?
律:まあ……うん。ぐちゃぐちゃって感じ。
雪乃:ぐちゃぐちゃ?
律:そう。ぐちゃぐちゃだよ。
色んなことに流されて……本当、生きづらいったらない。
<律は自分の指で膝を叩く>
律:でも……ボクには、ピアノがある。
雪乃:うん。律にはピアノがあるね。
間
律:まいったな……。
雪乃と話したいこと……いっぱいあると思ったのに……。
いざ隣に座ったら、真っ白になっちゃった。
雪乃:……そうだね。
前はあんなに話してたのに……不思議だね。
間
律:……落ち着くな。雪乃と居ると。
雪乃:……うん。落ち着いちゃった。
変だね……。
◆
<西東京芸術学園・ピアノ練習室E-6>
愛香:始めましょうか!
万智:はい。以前弾いていた曲なら暗譜してますから、お好きな曲で。
愛香:それじゃあ……『忘れられた小唄(わすれられたこうた)』なんてどうかしら?
万智:ドビュッシーの、ですね。
愛香:ええ。私、晴海さんの弾くドビュッシー、好きだったの。
万智:……ありがとうございます。
愛香:一曲目……『そは やるせなき』から――
万智N:私はドビュッシーの曲が好きだ。だからきっと、前から多少はマシな演奏をしていたのだろう。
この人は、私の細かな感情の機微さえも、ピアノの音を通じて、容易く見透かしてくる。
本当に、すごい。憧れる。
音楽に身を捧げ、歌声も美しく、才能もある。
自分に厳しく、他人に優しく、人間的にも非の打ち所がない。
だけど……『好きだった』と――平然と過去形で言えてしまうところが、苦手だ。
<万智はゆっくりとピアノを弾き始める>
愛香N:全六曲からなる、ドビュッシー作の歌曲集――『忘れられた小唄』
詩は総て、ヴェルレーヌの詩集『言葉なき恋歌(ことばなきこいうた)』から取られている。
『言葉なき恋歌』を書く以前――ヴェルレーヌは当時少年だった詩人ランボーと愛し合い、妻子や何もかを捨て、彷徨うように旅をしていた。
万智N:『そは やるせなき』の出だしは、ドビュッシーらしい9度の和音……。
美しく、滑らかに、歌を出迎える。
<愛香はゆっくりと口を開き、歌う>
愛香N:C'est l'extase langoureuse(セ レクスタズ ログルーゼ)……。
気怠い愛の詩(うた)……愛し合った後の疲労感と、聞こえてくる森のざわめき。
エクスタシーの先で待ち構える、甘美な静寂と、空虚な悲しみ……。
ああ……歌いやすい。
晴海万智さん……技術ばかり気にしていた貴方が、こんなに優しく弾くようになったのはどうして……?
万智N:美しく官能的なソプラノ……。
やっぱり、この人の歌は――全身に響いてくる。
愛香N:そよめく木々のように、息を混ぜて……。
ふふ……テンポもとても心地良い……。
晴海さん、私はレガートであなたのピアノを待つわ。
万智N:噛み合う……一緒に演奏が出来ている……。
伸びるような園部先輩の最高音……Aの音を押し上げるように弾ける。
愛香N:そう……これが音楽。
ドビュッシーの蠱惑的な響きと、ヴェルレーヌの愛の囁きが調和した世界……。
晴海さん……あなたは私の側を離れてから、どんな経験をしたの?
それとも――恋をしたのかしら?
ふふふ……私に、教えて。
万智N:本当は、少し後悔させてやろうと思った。
私をまるでちり紙のように捨てた園部先輩に、今の自分のピアノを見せつけてやろうと思った。
でも――そんなことは、どうでもよくなってしまう。
この部屋には、甘美な音楽があるから。
愛香N:ねえ……晴海さん。
この詩集が綴る愛の旅は――ヴェルレーヌがランボーを拳銃で撃つことで終わりを迎えたのよ。
そしてヴェルレーヌは、獄中でこの詩集を書き上げた。
そう――いつだって愛は、人を狂わせる。
万智N:ああ……この音楽……終わってほしくないな……。
愛香N:……私、あなたのピアノ……愛してしまったかも。
<二人は演奏を終える>
愛香:……ふふふ、ふふふふ!
万智:(息を吐く)……すごく、良い演奏でしたね。
愛香:ええ、そうね! とっても楽しかったわ!
晴海さん、以前よりもずっとずっと素敵なピアノを弾くようになっちゃって!
私、感動しちゃった!
万智:あ……ありがとうございます。
愛香:だから――
<愛香は冷たい笑みで万智を見つめる>
愛香:あなたのピアノでは、もう二度と、歌いたくないわ。
万智:……え?
愛香:出ていってくれるかしら。晴海万智さん。
今すぐに。
◆
<京王線・特急の車内>
律:これから、どこ行くの?
雪乃:知り合いにね、使ってないキャンバスをもらいに行くんだ。
律:そっか。夏の制作課題のため?
雪乃:ううん。夏の課題は別に用意してるから……。
今日もらうキャンバスは――コンペに送るつもり。
律:コンペ……それって――
雪乃:うん。外部の絵画コンペに参加してみようかなって。
とはいっても……ついさっき決めたんだけどね。
<雪乃は、胸に手を当てて深呼吸をする>
雪乃:私ね、『自分にとって、絵を描くことってなんだろう』――なんて……答えのないことばかり考えてた。
そういうことってね……考えてるうちはすごく気持ちいい。
自分は立ち止まってないんだって、安心できるから。
でも、それがだんだんと言い訳になって、逃げるために理由になって……。
気がついたら、もう動けなくなってた。
律:……うん。
雪乃:そういうの、もうやめたいんだ。
だから……戦わなくちゃいけないんだって、思った。
自分の弱い心とか……あとは――
律:過去、とか?
間
律:……愛香さんとのこととか、そういう話……?
間
雪乃:……うん。そうだよ。
<雪乃はゆっくりと目を閉じる>
雪乃:私の過去とも――あの人とも……私は、戦わなくちゃいけない。
律:そっか……。
<律は視線を伏せて、拳を握りしめる>
律:……ボクは……人間関係とか、人の感情とか、よくわかんない。
でも、わかったよ。
ボクはただ……何も知らないまま、流されるままに生きてきただけなんだって。
雪乃:……律。
律:ボクさ……最近、ずっと怒ってる。
みんな勝手なことばっかり言うんだ。
自分達の生きる世界が総てみたいな顔で、ボクに感情を押し付けてくる。
でもそれは……ボクが知ろうとしなかったことだ。
知ろうとしてこなかったことなんだ。
<律は、車窓に映る自分を見つめる>
律:ボクって、甘えてるよね。
雪乃:……律は、優しいよ。
律:ボクって、弱っちいよね。
雪乃:……律は、真っ直ぐだよ。
律:ふふふ……。本当……雪乃は、残酷だよ。
雪乃:……律も、私も……自分が大嫌いだったよね。
律:うん。そうだね……。
そんなボク達だから、あの雨の日に、出会ったんだよ。
<終点の八王子が近づく>
律:ボク、雪乃にピアノを聞いてもらいたいって思ってた。
もうすぐ、大きなステージで弾くから……来て欲しいって言おうと思ってた。
雪乃:うん。
律:でも、やめた。
雪乃:……うん。
律:今、ボク達の間にあるものって、すごく……半端だ。
それを言葉で埋めたって、なんにもなんないんだ。きっと。
雪乃:そうだね……。
律:ボクには、ピアノがある。
だから、弾くよ。
どこまでも遠くへ行ける列車に乗って、誰にも見えない景色を見る。
今度は、ボクの感情をみんなに押し付けてやる。
<律は、雪乃の顔を覗き込む>
律:……雪乃と愛香さんの間に何があったのかなんて、ボクは知らない。
雪乃:……律……。
律:でも、ボクは過去のことなんてどうでもいいんだ。
雪乃が、ボクのことを好きだから別れようって言った気持ちが、今なら少しだけ、わかるから。
<電車が停車し、ドアが開く>
雪乃:……私、降りるね。
律:うん。ボクは、このまま帰る。
雪乃:……それじゃあ、バイバイだね。
律:……うん。
<雪乃は電車を降り、二人は向かい合う>
律:雪乃。覚えてる? ボクらの約束。
雪乃:私の描いた絵のタイトルを教える代わりに……律はピアノを聴かせてくれる、だよね。
律:あの約束、忘れないで。
雪乃:(微笑む)……忘れないよ、律。
間
雪乃:じゃあ、またね。律。
<雪乃はホームを歩いて行く>
律:(呟く)……バイバイ、雪乃。
間
律:ボクはもう……負けないよ。誰にも。
<その瞳には力強い光が灯っている>
◆
<雪乃が八王子駅からアトリエへ向けて歩いていると、携帯電話が鳴る>
雪乃:……もしもし。
万智:『(電話口で)もしもし、雪乃?
雪乃:あ、はい。万智さん、どうしました?
万智:『もうキャンバス、受け取った?
雪乃:いや、これからです。
万智:『じゃあ、これからそっち向かうわ。
雪乃:え? そんな……いいんですか?
万智:『(明るく)ええ! いいのよ! 本当!
雪乃:えっと……何か、ありました?
万智:『あったっていえばあった! なんていうか本当!
むッッちゃくちゃムカついてる!
雪乃:ムカついた……って声のトーンじゃないけど……。
万智:『でも同時にね、スカッとしてんの!
雪乃:そう、なんですか……?
万智:『そう。……ようやく、同じステージに立てたんだって……思えたから。
雪乃:(微笑む)……よくわからないですけど、燃えてますね。
万智:『夏だもの。そういうもんでしょ。
雪乃:……はい。
<雪乃は自分の胸に手を当てる>
雪乃:私も……ドキドキが止まらなくて……。
……溶けてしまいそうです。
◆
<愛香はピアノの前に座っている>
愛香:……嫌い。嫌い。嫌い。
<しなやかな指使いが鍵盤を踊っていく>
愛香:……あどけなくて、恐れを知らない少女も……。。
雛鳥のようにずうずうしくて、与えられた愛だけで咲くことができる音楽家も……。
……嫌い。愛おしい。嫌い。愛おしい……。
……大切に抱きしめたい……叩きつけて壊してしまいたい……。
……早く……早く、早く私のところに来て……雪乃……ふふふ。
ふふふふふ……。
「少女遊星」第三話 終
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