「少女遊星」・二
作者:ススキドミノ
瀬名 雪乃(せな ゆきの):19歳。西東京芸術学園。美術学部2年。油絵専攻。
白沢 律(しらさわ りつ):20歳。西東京芸術学園。音楽学部、ピアノ科2年。
晴海 万智(はるみ まち):20歳。西東京芸術学園。音楽学部、ピアノ科2年。
園部 愛香(そのべ まなか):21歳。西東京芸術学園。音楽学部、声楽科3年。
※2018年1月18日 台本使用規約改定(必読)
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◆
律:7月に入る。
暑さが増してきた。
<西東京芸術学園・練習室E-6>
<愛香の歌に合わせて、律が伴奏をしている>
<歌が終わると愛香は律の方に目を向ける>
愛香:ねえ、どうだった?
律:え?
愛香:もう……! 私の歌っ! どうだった……?
律:いや、まあ……綺麗だったけど……。
繰り返しの後の第3小節。一番高いEの音がフラットしてた。
愛香:うっ……!
律:あと、2ページの歌い終わり、前の音を切る長さが変わったよね。
前と違ってる気がするんだけど。
愛香:(ため息)……本当に白沢さんって耳が良い……。
律:……言っておくけど、正直に言えっていったのは園部先輩だからね。
愛香:複雑な女心ってやつなのよ! めそめそ……!
律:そうやって凹んでるふりして、慰めさせようとしても無駄だから。
愛香:ひどいー! そんなことないのにぃ……。
律:……そういえば、本選でやる曲は決まった?
アリアはともかく、教会音楽とかオラトリオとか、慣れてないからさ。
早めに楽譜欲しいんだ。
愛香:んー……確かに気が早いってことはないだろうし……。
でも決勝の自由曲もまだ決めてないのよね……。
律:まあ……最近は一日中ピアノ弾いてるし。
コンクールまではまだ時間もあるから。決まったら教えてくれたらいいかな。
愛香:わかったわ。
ただ、白沢さん……オーバーワークはしてない?
律:ん? いや……そんなに無理してるつもりはないよ。それにーー
<律はじっと手元を見つめる>
律:ピアノだけなんだ。今は。
愛香:(微笑んで)……そう。
よーし! じゃあ今日は終わりにして休憩しましょっ。
<愛香は椅子に座ると、水を飲む>
<律は鍵盤に触れる>
律:あのさ……。
実は……授業出たんだ、ピアノの。
愛香:……え? 良かったじゃない!
一年くらい出てなかったんでしょ? 担当は?
律:マルコ・リー。
愛香:確かマルコ・リーって、選んだ生徒しか受け持たないんでしょ?
年によっては数人しか取らないこともあるって言ってたけど。
律:うん。
この学校に入るときに、わざわざボクに声かけてくれたんだ。
なのにほら……ボク、一年くらい授業出てなかったからさ。
絶対怒られるか、追い出されるかだと思ってたんだけど……。
愛香:どうだったの?
律:「やあ、律。はじめようか」って……それだけ。
面食らっちゃった。
<愛香はペットボトルを頬に当てながら微笑む>
愛香:ふふふ……世界的なピアニストなだけあるねぇ。
カッコいいこというなぁ……。
律:それから……「君が一番好きな曲を弾いてみて」って。
好きな曲っていってもあんまり思いつかなくて……なんとなく、全国大会の時に弾いたショパンのピアノ・ソナタ題三番を選んだんだ。
ここ一年弾いてないから、当たり前だけどボロボロでさ。
弾きながら「あー……ダメだな、この演奏」って思ってた。
……で、マルコに言われた。「その曲を好きだと思うなら、弾く時に迷ってはいけない」って。
今までは弾いてる途中に、ダメだなんて思ったことなかったんだ。
愛香:うん。
律:あー……ごめん。そういう話がしたいんじゃなくて――
愛香:いいのよ、好きなこと話して。
律:……マルコにね、今は声楽の伴奏やってるって話したんだよね。
愛香:じゃあ色々とアドバイスをもらえたってこと?
律:アドバイスかどうかはわからないけど……ボクにはもっと、世界を広げることが必要だって言われた。
「自分の世界で遊んでいる、幸せな子供の時代は終わったね」って。
愛香:……ふふ。本当、素敵な言い回し。
律:……あのさ……人と一緒に音楽をすることって……ボクにとってはいいこと、なんだよね。
愛香:……弾く時に迷ったらいけないって、学んだばかりじゃなかった?
律:ううん……。多分ボクは――迷ってるんじゃないのかも。
律N:ボクは雪乃と住む星を追われ、何をしていても宙ぶらりんで、居場所なんてなくて、迷うことさえできなくて――ボクはただ……さまよっている。
それでも、音楽だけがボクを繋ぎ止める。
そこにいてもいいと、音楽だけが、ボクに語りかけてくれている。そう思うようにしていた。
◆
<昼間・自主練習室から出てくる万智>
万智N:「人が何を思うのかなんて、わかるはずがない」
自分の感情に振り回されることの多い私だから、いつもそう思って生きてきた。
それでも、人生の中で何度かは、人の感情に目を奪われることがある。
<寮の近くの公園。雪乃はベンチに座っている>
万智:……ねえ。
雪乃:……はい?
万智:……あの……。
万智N:常日頃から、人の感情にまで気を配れる人間なんていない。
人が人のことを考えるのは、いつだって自分の都合だ。
だから本当は私も今――自分の感情に振り回されているだけなんだろう。
それでも、彼女に声を掛けてしまったのは、やはり自分のためだったのかもしれない。
あの日から、毎日のように一人で公園のベンチで座っている彼女のことを、私はどうしても気にしてしまっていたから。
万智:……覚えてる? 私のこと。
雪乃:はい。
万智:……そう。寮の左隣に住んでるんだけど……。
雪乃:……はい。
万智:……あなた……美術科よね。
雪乃:そう、ですけど……。
万智:そう……。
間
万智:あーもう! ちょっと!
雪乃:え……なんですか……?
万智:画材とか! 足りてるの!?
雪乃:画材……?
万智:ほら! 美術科って色々と入用なんでしょ!
雪乃:えっと……どういうことですか……?
万智:う……。いや……だから……。
<万智は雪乃から視線を反らす>
万智:……申し訳ないって……思ってんのよ。
雪乃:いや、なんのことを言っているのか……。
万智:だから! 前にほら……!
部屋の前で、あなたに会ったことがあったでしょ……!
雪乃:……ああ……あの時……。
万智:あれから……その……白沢律と一緒にいるの、見ないから。
<雪乃は目を見開いた後、視線を伏せる>
万智:私……余計なこと言ったんじゃないかって。
雪乃:そんなこと……。
万智:イラついて、あなたに当たってしまったから……。
本当にあの時は――
雪乃:あの……! ……やめてください。
<雪乃はまっすぐに万智の目を見つめている>
雪乃:謝らないで、ください。
万智:……え?
雪乃:謝られてしまったら……私のものじゃ無くなってしまう気がするんです。
あの時感じた気持ちも……選択も……すべてをあなたの言葉のせいだって思えたら……楽になっちゃう気がするんです。
私は、弱い人間だから……それを聞いたら、楽になろうとしてしまうと思うんです。
だから、謝られるのは……嫌、です。
万智:……何、それ。
<雪乃ははっとして自分の前で両手を振る>
雪乃:……あ。いや……。ごめんなさい、急に……その……。
万智:(呟く)そんなの……。
雪乃:え?
万智:そう……あなたは、そういうメンタルなわけね……。
<万智は腕を組んでため息をつく>
万智:(ため息)あのね……! そういうの、すごくウザい。
雪乃:あ、え、す、すみません……!
万智:なんであなたが謝ってるわけ……?
雪乃:変なこと言っちゃって……。
万智:……はぁ? 変なんかじゃないでしょ。
万智N:やはり、人の感情になんて、みだりに触れるものではない。
自分が救われたいが為に手を出すと、こうやって手痛いしっぺ返しを食らうのだ。
でも今回は――不思議と失敗したとは思っていなかった。
彼女の感情は痛みと共に、私の胸の奥の霧がかった感情を、少しだけ、撫でたような気がしたから。
万智:……正解よ。色んな意味で。
雪乃:正解、ですか。
万智:そう! あなたの言っていることは正解……!
私にとってもね……。
<万智は隣のベンチに腰を降ろす>
万智:……向き合わなくちゃいけないことなんて、山程あるじゃない。
でも、ずっと正面から向き合い続けるのって、しんどいのよ。
だから……何かのせいにして逃げたくなる。
私にとってそれは――「才能」だった。
雪乃:……はい。
万智:誰かに「才能がない」って言われたら、すんなり辞められる気がするじゃない?
<万智は自嘲するような、呆れているような笑みを浮かべる>
万智:――なぁんてね……辞められないってわかってるくせに言うんだから……本当に情けなくて、自分が嫌になる。
……「人のせいにしてやめよう」なんて……そんな中途半端な気持ちで、捨てられるわけがないのにさ。
間
万智:あなたはどうして――って……プライベートだもんね。
詮索するのも良くないか。
雪乃:……いえ……。
間
万智:ねえ! 謝るのはやめるから……何かは返させて。
雪乃:え?
万智:画材でも、ご飯でもいいから。
雪乃:そ、そんな! 私はそういうのは――
万智:あのねぇ……! ただでさえあなたの言葉で落ち込んでるんだから!
ちゃっちゃと奢らせてよ!
雪乃:言い分がめちゃくちゃ……!
<万智は雪乃に手を差し出す>
万智:私、晴海万智。ピアノ科二年。
雪乃:……あ、はい。
瀬名雪乃、です。
<万智は雪乃の手を取ると、ベンチから立たせる>
万智:瀬名さんね。ほら、行きましょ。
雪乃:あ! ちょっと……!
◆
<愛香と隣同士で、構内のロビーに座っている律>
律:……ダメ。
愛香:えー!? なんでよ!
律:なんか……むず痒いから。
愛香:いいじゃない! りっちゃんって呼んでもー!
律:じゃあ園部先輩のこと、まなかちゃんって呼ぶのはいいわけ?
愛香:いいわよ? むしろ嬉しい!
律:……やっぱやめ。
愛香:なんでよぉ、りっちゃんのいけず……。
じゃあ、園部先輩じゃなくて、愛香さんにしましょ!
律:本当……音楽意外だとチャラいんだよなぁ、愛香さん。
愛香:チャラいって……そう見える?
律:見える。
愛香:うわー、りっちゃん火の玉ストレート。
律:ちゃっかり『りっちゃん』になってるし……。
<律はオレンジジュースのストローをいじりながら愛香を見る>
律:……愛香さんって彼氏とかいます?
愛香:うん、いるよ。
律:……え!?
愛香:聞いといてその反応はどうかと思うなぁ?
律:い、言っとくけど! 『音楽が恋人』とかいったら、ボク伴奏降りるからね!
愛香:んー、お洒落にそう言いたいところなんだけど……本当にいるのよね。
四年の村上さん。
律:……そうなんだ。本当に居るんだね――
愛香:あとはぁ、三年の田川君と、美術科の塚原君。
律:ちょ、ちょっとまって!? え! 三人もいるの!? 彼氏!?
愛香:そうだけど?
律:そ、それって、三股……!?
愛香:普通はそうなるかもしれないけど、みんなわかっててお付き合いしてるから……。
一妻多夫? 結婚してるわけじゃないけど。
律:わかってて……? なんだよそれ……ただれてる……!
愛香:私って欲張りさんなの。
律:上手くいくもんなの……? そういうのって。
愛香:さぁ。上手くはいってないと思うな。
向こうからすぐに別れたいって言ってくるし。
律:うえ……それ、フラれて傷ついたりしないの……?
愛香:そりゃあ傷つくわよ? 悲しくて泣いちゃう。
律:ならどうしてそんな関係を続けるのさ。
別れるのって……辛いじゃんか……。わかっててやるなんておかしくない?
愛香:んー? まあ、そうねぇ。
もちろん悲しくもあるけど……でも、嬉しいから。
律:嬉しいって何が?
<愛香は髪を耳に掛けると、妖艶に微笑む>
愛香:だって……私のこと、忘れられないって言ってるようなものじゃない?
律:え?
愛香:最初はね……みんな「それでいい」って言うの。
私とのお付き合いはカジュアルだし、そういう経験はステータスになったりもするから。
でも、そのうちに私を自分だけものにしたくなってしまったり――あ、もしかしたら最初からそういうつもりだったりするのかもしれないけど……ほら、恋愛ゲームみたいな感じで。
とにかく――そういう動機だったりするからかな。
次第に私を自分のものにできないと感じると、私のことばかり考えるようになる。
そうしているうちに嫉妬や、葛藤が産まれて、押し寄せる情に耐えられなくなった瞬間――私を憎いと思うみたい。
相手に振られる瞬間はね、その想いが嬉しいの。
……愛憎もまた、愛の形だから。
<律は驚いた顔で愛香の顔を見つめる>
愛香:……引いちゃうかな? こんな愛香さんは。
律:……わかんない。
愛香:そう? りっちゃんはこういう話は好きじゃないのかなーって思ったんだけど。
律:いやだから……好き嫌い以前に、想像がつかないよ。
<愛香は律の手に自分の手を重ね、顔を覗き込む>
愛香:じゃあ、想像して。
律:……え?
愛香:私はね。芸術家にとって、知らなくていい感情なんてないと思うんだ。
普通に生きているだけでは得られないような、繊細な心の動きや、押し寄せるような痛みの総てが、私達の音楽の材料になる。
<愛香は律の手を離すと、怪しげに微笑む>
愛香:一緒に演奏をするようになってから思ったの。
……きっと、今まではあなたと音楽との間には何もなかった。
あなたは無垢な子供のように音楽を与えられて、音楽に愛されてきた。
でも、ずっとそのままでは居られない。
大人になれば、恋人ができて、自分の世界に他人が入るようになる。
或いは――他人の世界と混ざり合うようになるのよ。
そうなってしまえば、いままでの価値観のままでは生きられなくなる。
それこそ、「子供のままではいられない」ってこと。
律:……自分の世界に……他人が。
愛香:そう。
<愛香は目を細める>
愛香:だから……あなたも差し出さないといけないのよ。
律:差し出すって……何を?
<愛香は一転して明るく笑う>
愛香:ふふっ……それは私にもわからないなぁ!
なにはともあれ、色々知るために、先ずは勉強かな?
律:……は? 勉強って何するわけ?
愛香:りっちゃんは、もっと色んな演奏を聴かなくちゃいけないわ。
後は……そうね。作曲家についてと、曲の成り立ち、あとは時代背景や国のことも知識として入れないと。
律:そ、それって授業でやるような勉強ってこと!?
愛香:だってこの一年、授業に出てないんでしょ?
律:ボクはいいよ! そういうのは――
愛香:ダーメ! 大切なことなんだから!
それをこれから愛香さんが教えてあげましょう!
律:これ……拒否権ない感じだ……。
愛香:ふふ、じゃあ私、部屋からいくつか資料を持ってくるから――そうだなぁ、りっちゃんの部屋でやりましょうよ!
律:うげ! そ、それだけは勘弁してよ!
部屋、汚いんだよ!
愛香:じゃあ私が片付けてあげるっ。
律:嫌だってー!
◆
<雪乃と万智は美術館を中で、絵を見ている>
万智:……ねえ。
雪乃:……はい。
万智:……本当にこれでいいわけ?
雪乃:……え?
万智:えじゃなくて……。
確かに何でもいいって言ったけど……美術館の入館料って……。
雪乃:ダメ、でしたか……?
万智:それはいいけど……なんで美術館?
雪乃:ここの展示、見たかったんです。
万智:入館料払えないくらい金欠とか?
雪乃:え? あ……いえ。そういうわけじゃないです。
間
万智:あのねえ……瀬名さんは質問しないと答えないわけ?
大体こっちが聞きたいこと、汲み取れるでしょ。
雪乃:す、すみません……!
万智:あと、人に謝るなっていうわりに、簡単に謝りすぎ。
雪乃:あ、えっと……。なんていうか……。
<雪乃は視線を落とす>
雪乃:友達……いないんです。
万智:……は?
雪乃:だから……美術館を一緒に周ってもらえる機会って無くて。
万智:ちょ、ちょっとまって……!
瀬名さん、私のこと……友達だと思ってるわけ……?
雪乃:いえ……! そういうわけじゃないですけど……!
万智:私もそう思ってるけど……はっきり言われるとそれはそれでなんかムカつくわ……。
雪乃:すみませ――あ。謝っちゃっ――ごめんなさ――あ。
万智:は?
雪乃:えっと……ごめん、なさい……。
間
万智:(吹き出す)ちょ、待って……! 意味分かんない……!
普通そうはなんない――くくく……!
雪乃:ふ、ふふふふ……!
<二人は少し笑い合う>
万智:あーもう……! なんかもういいわ。
瀬名さん変だし。深く考えてもしょうがない。
雪乃:えっと……本当に、深い意味とはなくて……。
万智:わかったから……見ましょ。
<二人はじっと絵を見て回る>
万智:とはいっても……私、絵を見たりとか、興味ないから……正直、どう見れば良いのかわからないんだけどね……。
雪乃:私も……そうだったんです。
<雪乃は懐かしむような笑みを浮かべる>
雪乃:小学校の遠足とかで行ったときも、別にそんなに気にしたこともなかったですし。
ただなんとなく、この絵は色が好きだな、とか……綺麗だなとか思ってただけで。
万智:瀬名さんって、美術科よね。
雪乃:はい。油絵専攻です。
万智:見るのが好きじゃなかったなら、どうして好きになったの。
雪乃:中学校の時に、絵を描くのが好きな友達に連れられて、美術館に来たんです。
着くなり友達は、『私はスケッチを描くから、雪乃は好きに見てて』って。
急に放りだされて、どうしようって思ったんですけど……。
その時美術館の入り口で、音声ガイドの貸し出しをしてるのを見かけて。
万智:それってイヤホンとかで聞くやつよね。
雪乃:そうです。番号を押すと、絵に関する説明や、その絵を書いた画家の当時のエピソードとか、時代背景なんかをガイドしてくれるんです。
それを聞きながら絵を見ていたら……すごく、変わったんです。
<雪乃は楽しそうに絵を眺める>
雪乃:それまでは、絵画を描いている人はすごい特別な存在で、それを見る人間もその芸術性を理解できるような人達で……。
私には高尚過ぎて、理解できるはずがないって……そう思っていたんです。
でも実際にガイドを聞いていると……これは私と同じ、人間が描いたものなんだってわかって……。
わかった瞬間に、その絵と自分との距離が……縮んでいったというか。
……景色が、その色が、まるでその場にいるように広がっていって……書いた人の心を通して、自分もその場にいるように感じて……。
こんな風に、自分の見て心が動いた景色や表情、風景や色……感情を伝えられたら、表現できたらって……そう思って。
それから、絵を描くようになりました。
万智:……そうなんだ……。
<万智は腕を組んで絵を見つめる>
万智:芸術ってなんなんだろう、って……思うことがあるんだけど。
雪乃:……はい。
万智:創作と表現って、すごく個人的なものじゃない。
今、瀬名さんが言ったみたいに……自分自身が表現したいものと向き合えばいいのかもね。
雪乃:……はい。そうですね。
万智:ねえ。この絵を書いた画家は、どういう経緯でこれを書いたの?
雪乃:え? あ……はい。
この絵は、画家が十四歳の時に故郷の景色を描いたものです。
画家の家は貧乏で、彼はこの後、都会の親戚のもとで暮らすことになるんです。
この先、故郷で暮らすことはないだろうと悟った彼は、自分の産まれ育った街を風景画に残したそうです。
万智:へえ……。
<万智は食い入るように絵を見つめる>
万智:……本当だ……。
そうやって知ってから見ると、見え方が変わる。
雪乃:ですよね……。
万智:空が緑がかっているのはどうして?
雪乃:当時、金銭的余裕の無かった画家には、高価な青の顔料が買えなかったという説が一般的です。
ですが……緑の下に黄色を置いてなじませていることから、はじめからこの色合いで描きたかったのだという説もあります。
万智:瀬名さんはどちらだと思うの?
雪乃:私は……そうですね。
……空は青いとは限らないのかなって……思います。
万智:……そう。
<万智は緑がかった空を見つめる>
万智:……人間の想像力って、常に働くものではないじゃない。
誰かの立場になって自主的に想像したりしないと、正直心って動かないし、響かない。
だから、知ろうとすること――勉強することって大切なのね。
雪乃:はい。本当に不思議なんですけどね。
……知れば知るほど、心動かされていくんですから。
きっとまだ、知らないことはたくさんあるんだろうなって……。
万智:私の小学校の友達は、みんなポップスが好きだったの。
だから、私がクラシックを弾いても誰も聴いてくれなかった。
でも……テレビで流れてるCM曲のメロディをちょっと弾いたら、みんなピアノの周りに集まって、喜んで……。
最初は嬉しかったけど、だんだんそれが悔しくなって……みんなの前でピアノは弾かなくなったんだ……。
あの時、もっとちゃんと話してたら……少しは興味を持ってくれたのかな……。
<雪乃はじっと万智を見つめる>
雪乃:いい芸術は……伝わるんでしょうか。
万智:……興味がない人にでもってこと?
雪乃:はい。誰かの心を、動かせるんでしょうか。
万智:あなた……本当に嫌なこというわね。
雪乃:ええ……でも、目を反らしてもいられませんから。
万智:……そうね。私が本物だったら。
あの時も、説明の必要なんてなかったかもしれない。
雪乃:いまからでもなれるでしょうか――本物に。
万智:わからないわ……。でも、どうせやるのよ。私達は。
芸術ってクソ男に、惚れちゃったんだもの。
◆
<律の部屋、律はスピーカーでクラシックのCDを聞きながら机に突っ伏している>
律:……もう、無理……。
<愛香は部屋のゴミをまとめながら笑顔を浮かべている>
愛香:あら、もう限界?
律:わかった……! わかったからちょっと休憩させて……!
愛香:しょうがないなぁ……。じゃあ、ちょっとだけね。
<愛香は音楽の再生を止める>
律:(ため息)……しんどっ……。
愛香:りっちゃんは耳がいいから。情報量が多いと疲れちゃうのかもね。
律:それもあるけど……座学しながらぶっ続けは誰でもキツイと思うよ……。
愛香:気に入った曲はあった?
律:……ん? あー……まあ……。
<律はアルバムを手に取ると曲目を眺める>
律:っていうか……ピアノ・コンチェルトが多かった気がするんだけど、わざと?
愛香:うん、わざと。
律:……どうして?
愛香:んー、今のりっちゃんが聞くべきものかもって思って。
律:……色んな人と音楽をするって……つまりそういうこと?
愛香:別にりっちゃんが実際に弾きたいと思うかの話じゃないわ。
伴奏も初めてだって言ってたから、オーケストラと一緒に弾く自分を想像してみるのもいいんじゃない。
<律は自分の腕に顔を乗せながら考える>
律:うん……。確かに、今まではピアノ曲ばっかり一人で弾いてたから意識したことなかったけど……。
特に、今聴かせてもらった中だと、このラフマニノフのピアノ・コンチェルト第二番。ピアノとオーケストラが重なりあっててすごく良かった。
愛香:そうね。楽団も指揮者も素晴らしいし……。あ、そうだ。ソリストの名前、見てみて。
律:え? えっと……。へ!? マルコ・リー!?
愛香:ふふふ。そう。あなたの先生。
律:そっか。マルコが……。
愛香:ね? 知らなければいいことなんてないの。
<愛香は鞄から楽譜を取り出す>
愛香:……はい。
律:これって……。
愛香:気に入るかもって思って、持ってきたの。ラフマニノフ、ピアノ・コンチェルト第二番のスコア。
律:(ため息)……どうして声楽家の愛香さんがスコア持ってるわけ?
愛香:勉強のため、かな?
律:ほんっと……そこまで徹底してると怖くなってくるよ。
愛香:怖いくらい努力しないと、不安になるじゃない。
って……あなたに言うことじゃないかもしれないけど。
律:……ボクって、そんなに努力してないようにみえる?
みんなにそう言われるんだけどさ。
愛香:ううん。そういう意味じゃない。
だって……りっちゃんのピアノって、怖いもの。
律:怖い……?
愛香:そう。精密で、美しくて、押しつぶされそうになる。
◆
<夜、雪乃と万智はビルの居酒屋から出てくる>
<万智は飲酒のせいか、少し頬を赤らめている>
雪乃:本当に大丈夫ですか……?
万智:だぁいじょうぶよ!
雪乃:だって、晴海さん、お酒あんまり飲まないんじゃ――
万智:進められたらしょうがないじゃない!
瀬名さんは未成年だから飲めないし!
雪乃:それはそうですけど……。
万智:ほんとに! ほんっとに大丈夫……!
飲み慣れてないから調子がわからないだけよ……!
それより! 会計、払ってるわよね……!
私が出すから……!
雪乃:そ、そんなのいいですから……!
万智:もともと私が驕るっていってたんだから!
雪乃:美術館の入館料出してもらったし……!
万智:うるさーい! 結局私も楽しんだんだから関係なーい!
雪乃:それは嬉しいですけど……!
ちょっと、このベンチに座ってください……!
<雪乃は万智をベンチに座らせる>
雪乃:お水、買ってきますから!
ここで待っててくださいね……!
万智:あ! また驕る気でしょ! こらぁー!
<万智は走り去る雪乃を見送るとため息をつく>
万智:はぁー……何やってんだぁ……私はぁ……。
<万智はベンチの背もたれに身体を預けると、ぼーっと宙を見つめる>
万智:私って……視野狭いなぁ……。
頭も固いし……短気だし……。
……そりゃあモテないわけだ……。
人にも……音楽にも……。
<ふと、視線の先に街角ピアノが見える>
万智:駅中にストリートピアノなんてあるんだ……。
さすがは芸術の街……。
<万智はふらふらと立ち上がると、ピアノに近寄っていく>
万智:誰も聞いてないんでしょ……。
私のピアノなんて……本物じゃないんだから。
だったら別にいいじゃない……ここで弾いたってかまわないでしょ……。
◆
<愛香は律の隣に座ると、律の手を握る>
律:ちょ……! 愛香さん、何……?
愛香:手、大きいね。
律:……まあ、そうかもね。
愛香:この長い指だって、誰しもが持てるものじゃないってわかってる?
ねえ……この指を何度鍵盤にぶつけたの。
律:わからないよ……そんなの。
<愛香はラフマニノフ、ピアノ協奏曲第二番のピアノ譜をめくる>
愛香:第一楽章の冒頭の和音。FからAフラット……十度の音程。
手の小さいピアニストは、分解して弾くそうよ。
でも、あなたなら弾ける。
律:……何が言いたいの。
愛香:私はね……もっと本気になって欲しいの。
りっちゃんが本気で、音楽に取り組んでくれたらいいなって思ってるだけ。
律:それ……ボクが愛香さんの伴奏をするからってわけじゃないよね。
愛香:あら……どうしてそう思うの?
律:愛香さんは、取り憑かれてるから。
愛香:……何に?
律:わからないけど……でもそれは多分――音楽にじゃないと思う。
愛香:……ふふふ、あはははは!
なにそれ! りっちゃんったら、ひどいこと言うのね!
律:……ごめん。言い過ぎたかな――
愛香:せいかい。
<愛香は律の頬に手を触れる>
愛香:私にとって音楽が特別だっていうのは本当よ。
でも、それだけじゃないと言われたら……それも本当。
◆
<万智はストリートピアノに腰掛けると、ゆっくり鍵盤に手を置く>
万智:こんな街中でピアノを弾く?
……私が?
万智N:人前でピアノを弾くのは苦手だ。
小学生の頃、クラシックを聞かなかった友達が嫌だった。
私のピアノは、発表会と大会で弾くためのものになった。
大会で結果を出すためだけに練習して、ミスタッチに怯えて、ペダル踏むのが怖くなった。
いつの間にか、私の音楽は競うものになって、私の音楽は楽譜の中に閉じこもってしまって……。
いつの間にか、私の音楽は手からこぼれ落ちていって、それでも必死にかき集めて……かき集めて……。
もうどこにあるのかなんて、わからなくなってしまっていた。
万智:なんでだろうね……。
万智N:今日観た美術館の展示。
当たり前のようにそこにある芸術。
私と絵の間には、何も邪魔するものはなかった。
素直に、感じたままに、見ることができた。
最初は私もそうだったんだ。
小学四年生の頃……ピアノの先生から、幾つかの楽譜を渡された。
「自分が演奏したい曲を選んでいいよ」――その言葉に、胸が踊った。
慎重に選ぼう。そして、大切にしよう。楽譜を抱きながら、そう思った。
そして、私が選んだ曲は――
<水を片手に戻ってきた雪乃は、ピアノの前に座る万智に気づく>
雪乃:晴海さん……?
<万智はゆっくりとピアノを弾き始める>
雪乃:……ドビュッシーの、月の光……。
万智N:ああ……そうだ。
私はこの曲を知っている。
月の光に照らされた、華やかで艶やかな仮面舞踏会。
しかし、仮面の下には憂いがあり、まやかしの幸福は、静寂な月の光に溶けていく。
ヴェルレーヌの詩に影響を受けたドビュッシーが、当時愛した女性に捧げた曲。
<万智は目を瞑りながら、鍵盤を叩いていく>
万智N:ピアニッシモ……小さく、繊細に奏でる。
必要以上にドラマチックな、過剰な演出は必要ない。
降り注ぐようなアルペジオを、音の粒を切らさないように。
雪乃:なんて……綺麗……。
万智N:自分の表現したかったピアノ。
こんな風に弾いてみたいと、考えて、向き合って……この曲を練習するのは、とても楽しかった。
私と音楽の間には、何も邪魔するものはなかった。
月の光が――ただ私を照らすだけで……。
◆
<愛香は妖しげに微笑む>
愛香:……ねえ。りっちゃん。
律:何……?
愛香:あの絵だけど。
<愛香は部屋の隅に立て掛けられた絵に目を向ける>
愛香:あの絵……雪乃が描いたものでしょ?
律:……それが?
愛香:どうして、雪乃だったのかしら。
律:は? 何の話してるんだよ――
愛香:あの子の絵が、欲しいと思ったのはどうして?
律:そんなの……! あなたに話す必要はない……!
愛香:あの絵がどうして描かれたのか知ってる?
律:知らないし! 知りたくない!
愛香:もうわかってるくせに。
あの絵は――私を描いたものよ。
律:やめろって! 知りたくないって言ってるだろ!
愛香:……ほらね。だから、あなたは私に近づいた。
あの子のことが知りたかった? でもダメよ。
あなたに音楽をしてほしいから、あの子はあなたを手放したんだもの。
律:なんで……? なんで知ってるんだよ!
愛香:それはね……私があの子を――瀬名雪乃を愛しているからよ。
律:あい、してる……?
愛香:だからわかるの。
雪乃とあなたが一緒に居るのを観て、あなたが私の伴奏を引き受けたのを観て、あなたが音楽に集中しだしたのを観て、私にはわかった。
雪乃とあなたが、どうして別れることになったのかを。
雪乃を通して見れば、手にとるように。
律:愛香さんは……おかしい……! おかしいよ!
さっきから何言ってるんだよ!
愛香:……りっちゃんだって、それが知りたかったんでしょ?
律:ボクは……! そんなこと……!
わかんないよ! なんなんだよ!
ボクはあなたを尊敬してるのに……!
音楽のことをもっと知って……! もっと音楽を知って――
愛香:雪乃に聴かせる?
律:ッ!
愛香:そして、あなたと雪乃は再び結ばれる?
律:やめろ……。
愛香:あなたのピアノを、ずっと側で――
律:やめろよ!
<律の振り上げた手を、愛香が受け止める>
<律は泣きながら愛香を睨みつける>
律:これ以上……! ボクの心に踏み込んで来ないでよ……!
愛香:ごめんなさい……りっちゃん。
あなたを傷つけるつもりなんてないの。
あなたに素敵な音楽を弾いてほしいのも本心だわ。
<月の光が、部屋に差し込む>
愛香:でも……雪乃はあげない。
あの子は……私のものだから……。
律:クソ……! そんなの……!
愛香:安心して……? あの子以外のものなら、なんでもあげる。
私が、あなたに音楽をさせてあげるから……。
<愛香は律の髪を手ですくと、ゆっくり顔を近づける>
律:ボクは――
愛香:しーっ……ほら……。私に集中して……。
<二人は唇を重ねる>
◆
<万智はゆっくりと鍵盤から手を離す>
万智:……え?
<周囲の人間から拍手が起こる>
万智:あ、え? なんで、こんなに人……!
あ、あの……! すみません……!
<万智は逃げるようにピアノから離れ、雪乃の元へ向かう>
万智:……せ、瀬名さん――
雪乃:はい。お水です。
万智:あ、ありがとう……。
でもなんか、酔い……覚めちゃったけどね……。
雪乃:……晴海さん。
万智:何?
雪乃:本物じゃないですか。
万智:……え?
雪乃:……本物の芸術だったら、聴く気のない人でも聴いてくれる――ですよね。
みんな足を止めて、聴いてましたよ。
晴海さんの演奏
<万智は呆けたように雪乃を見つめる>
万智:……本物? 私のピアノが……?
雪乃:はい。感動しました。
月の光に包まれているような……。
きっとみなさんにも、見えていたと思います。
<万智の目から涙がこぼれてくる>
万智:嘘……! やだ……!
雪乃:(微笑んで)……ハンカチ、今出しますね。
万智:瀬名さんの前で……何回泣くつもりよ……!
私ってやつは……!
<万智はハンカチを目に当てながら、笑顔を浮かべる>
万智:……ああ……私の音楽が……帰ってきてくれたんだ……。
嬉しいなぁ……!
「少女遊星」第二話 終
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