「少女遊星」・一
作者:ススキドミノ
瀬名 雪乃(せな ゆきの):19歳。西東京芸術学園。美術学部2年。油絵専攻。
白沢 律(しらさわ りつ):20歳。西東京芸術学園。音楽学部、ピアノ科2年。
晴海 万智(はるみ まち):20歳。西東京芸術学園。音楽学部、ピアノ科2年。
園部 愛香(そのべ まなか):21歳。西東京芸術学園。音楽学部、声楽科3年。
※2018年1月18日 台本使用規約改定(必読)
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◆
雪乃N:五月。つきまとうような暑さに追われる駅前。
行き交う人々の足音を聴きながら、私はただ雨に打たれている。
時間は、ガムみたいだ。
最初は美味しさに痺れて、夢中で噛んで味わって――でも、次第に味がなくなっていってしまう。
今はどうだろう。どれだけ感じようともがいても、感情の置き場がわからない。
絶望と呼ぶにはあまりにも空虚で、悲しみと呼ぼうにもそこには涙のひとつも流れてはこない。
乾いた心のまま――見上げる空。
少しでも、濡れることができたら――そんなことを思っていた。
<雨が降り注ぐ駅前にて、雪乃は傘もささずに座っている>
<雪乃の前にはビニール袋が被さった油絵が置いてある>
律:……ねえ。
<律が傘を差したまま、雪乃に声をかける>
律:君、雨が降ってるって気づいてる?
<雪乃はゆっくりと顔を上げる>
律:その油絵、売ってるの?
雪乃:……いいえ。
間
雪乃:もう、いらないんです。
律:いらない?
雪乃:ええ。いらないけど、捨てるのは忍びなくて……。
誰かにもらっていただけたらいいかもって……。
律:ふーん……。
誰かに渡すために……。
<律は絵をじっと見つめる>
律:だから、雨に濡れないようにビニールを被せてるんだ。
雪乃:……そうです。
律:この絵って、君が描いたものなんだよね?
<雪乃は視線を伏せる>
間
律:……ねえ。この絵、ボクがもらってもいいかな。
雪乃:……え?
律:ボク、絵には詳しくないんだけど……でも、この絵はなんだか、気に入ったから。
雪乃:……そう、ですか。
律:うん。こんな雨の中で……ビニール越しなのにさ。
なんだか……見ていて、とっても暖かい気持ちになる。
光の差し込む部屋と、そこに映る女性の表情が、なんていうか……とっても幸せそうで。
雪乃:……ありがとう、ございます。
律:本当に、ただでもらってもいいの?
雪乃:いいんです。気に入ってもらえたなら、それで……。
律:……じゃあ、お礼っていうには安物だけど――
<律は鞄の中から折りたたみ傘を取り出す>
律:この傘。あげる。
雪乃:いえ、私は――
律:絶対冷えるよ。それで、後で絶対後悔する。
だから、はい!
<律は雪乃の手に傘を押し付ける>
律:それじゃ、絵はもらうね
えーっと……それで、名前は?
雪乃:は? あ、あの……瀬名、雪乃……です。
律:……へ? ああー! 違う違う! この絵のタイトルをきいたんだよ!
雪乃:あ……え?
い、いやあの……! すみません……!
律:(笑う)あはははは! それ、面白い!
<律は何気なくロータリーの時計塔を見て目を丸くする>
律:うわ!? もうこんな時間!?
ごめん……! 予定あったの忘れてた!
雪乃:よ、予定?
律:うん! バス、乗り遅れちゃうから行くね!
ありがとう瀬名雪乃さん! また今度!
<律は絵を抱えると走っていく>
雪乃:……行っちゃった……。
間
雪乃:また今度って……。
<雪乃はゆっくりと傘を開く>
雪乃:……傘、もらっちゃったな……。
雪乃N:この雨に濡れていたいと思っていた。
その傘を広げた瞬間……滴る雫は、確かに私にまとわりついて、少しだけ――感じた。
心の奥の、小さな暖かさを。
◆
雪乃N:あの五月の雨から――もうすぐ一年が経とうとしている。
「少女遊星」
◆
<西東京芸術学園・学生寮>
<雪乃はゆっくり目を覚ます>
<机の上では律がアイスを食べながら本を見つめている>
雪乃:ん……あれ……律?
律:おはよー、雪乃。
雪乃:……何してるの?
律:何って、勉強?
雪乃:どうして私の部屋で……?
律:えー! だってボクの部屋汚いしさぁ!
机の上とか楽譜広げるスペースもないんだよ。
雪乃:(ため息)片付けなよ……。
律:同じ寮にこんなに居心地いい部屋があったら、掃除する気になんてならないって。
雪乃:それはまあ……いいけど。
っていうか……律が朝早くに来るなんて、珍しいね……。
律:朝? いやいや、朝に起きるなんて無理に決まってるじゃん。
雪乃:……え?
律:もうお昼だよ?
<雪乃は飛び起きて携帯の画面を確認する>
雪乃:ッ! ああああああ!
律:え!? 何!? どうしたの!?
雪乃:エリック教授の講義……! どうしよう!
初回なのに……!
<雪乃は慌てて着替えを始める>
律:それってもしかして、エリック・フォン・アルメハウザー?
彫刻の?
雪乃:そうだよ……!
律:あれ? 雪乃って油絵専攻じゃなかったっけ?
雪乃:興味あったから取ったの……!
時間割り変わったばっかでアラームかけてなかった……! うー!
律:うわー、そうだったんだ。
そういえば……エリック教授って遅刻に厳しいって聞いたけどなぁ。
雪乃:嘘!? 本当に!?
律:う・そ。聞いたことないよ。
雪乃:バカ律!
律:あははー!
まだ時間あるし、間に合うんじゃない?
雪乃:うん……! 行ってくる!
<雪乃はリュックを掴むと玄関に走っていく>
律:雪乃! ちょっと待って!
雪乃:え!? 何!
<律は雪乃に近づくと、髪の毛の寝癖をなでつける>
律:……はい。寝癖落ち着いた。
雪乃:ありがとう……! 他は? 変なところない?
律:うん。大丈夫、いつもの雪乃だよ。
雪乃:よかった……!
律:ふふふー、なんかこれって、新婚の夫婦みたいじゃない?
雪乃:は? 何が?
律:ほら、ネクタイとか直してあげてさ――
雪乃:ああもう! わかったから行ってくるね!
律:はいはーい! いってらっしゃいあなたー。
お仕事頑張ってねー。
<ドアを開けると雪乃はドアの前で万智とぶつかる>
万智:キャッ!
雪乃:あ、すみません……!
万智:……気をつけてよね。
雪乃:は、はい……!
<律が顔を出して雪乃の肩に触れる>
律:ほら雪乃! 遅れちゃうよー!
雪乃:う、うん……! 行ってきます!
<雪乃は寮の入り口へと走っていく>
律:転ばないようにねー。
万智:……。
<万智は雪乃に向かって手をふる律の顔をじっと見つめていた>
律:ん? 何?
万智:……貴女、何してるの。
律:何してるって? 友達の部屋で勉強だけど。
万智:……ふうん。余裕、あるのね。
<律はポカンとしたあと、頬を指でかく>
律:あれ? 僕たち、知り合い?
<それを聞いた万智は手に持った鞄を握りしめる>
万智:……そうでしょうね。
貴女にとっては……。
<万智はうつむいて部屋の前を歩きさる>
律:……さーて! 僕は勉強の続きしよっかなー!
<ふと、空が曇りかけているのに気がついて目を細める>
律:……もうすぐ、梅雨だねぇ。
◆
<西東京芸術学園・ピアノ練習室E-6>
<苛ついた様子で万智が入ってくる>
愛香:こんにちは。
万智:……すみません。少し、遅れました。
愛香:別に遅れたってほどじゃ――
万智:いえ。すみません。
すぐに準備します。
<万智は鞄を椅子に置くとピアノへ向かう>
愛香:(少し笑って)ストップ。
万智:……え?
愛香:どうしたの?
万智:どうしたって……? どういう意味ですか?
愛香:だから、なんでそんなにイラついてるの?
万智:イラついてなんか――
愛香:ない? 本当に?
<愛香は目を細める>
愛香:私は、イラついた伴奏に合わせて歌いたくないなぁ。
万智:いえ、あの――
愛香:なんてね! ちょっとそれっぽいこと言ってみました。
あ。でも、そんな感じで弾かれたら困るっていうのは本当。
万智:……すみません。
愛香:謝らないで! 本当に、何かあったのかなって気になっただけだから。
<愛香は鞄の中からお茶を取り出す>
愛香:これ、飲んで。
万智:(受け取って)……ありがとうございます。
愛香:私の方こそごめんね。
万智:え?
愛香:学内コンクール前なのに……私の歌の伴奏なんて。
万智:いえ! 私は……その……。
<万智はお茶を一口飲む>
万智:私は、好きでやってますから……。
愛香:好き? えー嬉しい。それって私のこと?
万智:え? は!? えっと……!
愛香:ふふふ! 冗談冗談!
嘘ー顔真っ赤だよ?
万智:ちょ、ちょっと……!
私、そういうの慣れてないんで……!
愛香:へぇー、そうなの?
万智:だから……! あの、そうやっていじるのやめてください……!
愛香:(笑顔で)でも……晴海さんが、私の歌を好きだって言ってくれたの、すごく嬉しかったな。
万智:はい……。園部先輩は、お上手ですし。
音楽の物語そのものを楽しんでいるみたいというか。
一緒に演奏していて、その……楽しいんです。
私、ピアノを弾いていて、そういう瞬間って……あんまりないので。
愛香:照れるなぁ。
万智:事実です。
愛香:……でも、ちょっと意外かも。
晴海さん、いつも楽しそうに弾いてるから。
万智:いや……。
……そんなこと、ないです。
いつもどこかで、色んなことを考えてしまって。
だから、窮屈で、つまらないんです。私のピアノって……。
もっと音楽に身を委ねてもいいって教授にも――
<万智は愛香がじっと見つめているのに気づく>
万智:な、何をそんなに見てるんですか?
愛香:うん。かわいいなって。
万智:(真っ赤になる)なななな何を……!
愛香:可愛いさって大事よ、音楽家にとって。
万智:はぁ!? ど、どういう意味ですか……?
<愛香は楽譜を取り出すと小さく笑う>
愛香:音楽って……ダメな恋人なのよ。
万智:……は……?
愛香:追いかけて、追いかけて、どれだけ自分を捧げても、振り向いてくれない。
だけど……たまに気まぐれでこちらに触れてくれたときには、誰よりも喜びと感動をくれる。
だからまた、離れられなくなってしまう。
万智:……それ、ちょっとわかる気がします。
愛香:だから、貴女みたいにひたむきに、甲斐甲斐しく尽くしてくれる可愛い子には……。
いつか彼も、振り向いてくれると思うわ。
万智:それでも突き放されるかもしれませんけどね。
愛香:ええ、ダメ男だからね。
万智・愛香:(笑う)
<万智は楽譜をピアノの譜面台に置く>
万智:すみません。はじめられます。
愛香:ええ……。
<愛香はじっと万智を見ながら微笑む>
愛香:今日で最後にしましょう。
万智:……え?
愛香:コンクールでは、私の伴奏は弾かなくていい。
万智:あの、どうしてですか……!
私じゃダメですか……!
愛香:そういうことじゃないの。
考えてたんだけどね……。
晴海さんは、自分の学内コンクールに集中しなくちゃ。
万智:私、できます……!
どちらにも集中できるし――
愛香:晴海万智さん。
<愛香はじっと万智の目を見つめている>
愛香:一度でも真剣に恋をした人間じゃないと――音楽は振り向かないの。
万智:真剣に……恋……?
愛香:そう。ダメ男だから、余計にね。
本当に伴奏を続けたいなら、私はありがたいけど……。
でも、貴女にとって本当に必要なのは、私の伴奏をすることではないと思うな。
万智:……それは……。
愛香:……どう?
<万智はじっと俯いた後、つぶやく>
万智:今から伴奏……見つかるんですか?
愛香:というより、見つける! かな。
万智:私の代わりなんですから……下手な人じゃ、ダメですよ。
愛香:なら、後で自慢させてね。
私のあの晴海万智が、私の伴奏をしてくれてたんだって。
<万智と愛香は顔を見合わせて笑う>
愛香:さ! というわけで!
今日は練習というより、目一杯のびのびと音楽とデートしましょう!
……ね? 晴海さん。
<万智は小さく微笑む>
万智:……はい。
◆
<講義棟前・ベンチに座る雪乃>
<雪乃は携帯電話を取り出すと、電話をコールする>
雪乃:(電話に向かって)……あ、もしもし。律?
うん……終わったとこ。……いや、怒られはしなかったけど……。
うん。後で話す。
……え? ああうん。いいけど。どこか食べたいとこある?
うん。……そうだね。じゃあ駅前で待ち合わせする?
……えっと、講義棟の前だけど……。そう、鳩像(はとぞう)のとこ。
わかった。鍵、締めてきてね。
(微笑んで)……わかったって。それじゃ、待ってるね。
<雪乃は携帯電話を仕舞うと、ゆっくり構内を見渡す>
雪乃:……雨降るかな……。
<雪乃は曇り空を見上げる>
雪乃:……もう……梅雨だな……。
<雪乃が顔を降ろすと、視界の先から愛香が歩いてくる>
<雪乃は驚きに目を見開くと、とっさに自分の鞄を握りしめる>?
愛香:……あら?
雪乃:……あ。
愛香:(微笑んで)久しぶりね、雪乃。
雪乃:(小さな声で)……はい。
愛香:講義、終わったところ?
雪乃:……はい。
愛香:そう。なんの授業だったの?
雪乃:……彫刻、です。
愛香:彫刻? 油絵はやめたの?
雪乃:いえ……やめたわけじゃ……ないです。
愛香:ふぅん。
<愛香はゆっくりと雪乃に近づく>
<雪乃は身体を固く緊張させる>
愛香:確かに、色んなものを勉強したほうが、成長に繋がるかもしれないものね。
うん、良いと思うな。
雪乃:……はい。
愛香:夏季コンクールには出品する絵は描けた?
雪乃:……あ……いえ、まだ……。
愛香:そうなの。
いい絵がかけるといいわね。
雪乃:……はい。
<端切れの悪い雪乃を見て、愛香は目を細める>
愛香:もしかして……まだ迷ってるの?
雪乃:い、いえ……。
愛香:自信がない?
雪乃:……な、なんで急に……。
愛香:変わってないね。雪乃。
間
愛香:もう少し変わってたらなぁって思ってたけど……。
間
雪乃:すみません……。
愛香:(苦笑いで)謝ることじゃないと思うけど……。
それとも……自分でも、負い目があるのかな?
<愛香は腰に手を当てると、困ったような笑顔を浮かべる>
<雪乃の隣に誰かが座る>
律:ゴメーン! 雪乃、おまたせー。
雪乃:あ……。
律:いやぁ、鍵がどこにあるかわかんなくなっちゃってさぁ。
雪乃が同じところに置いておいてって言ってた意味がわかったよ!
雪乃:本当……あの……気にしなくて、いい……。
律:ん? どうしたの? なんかあった?
<律は笑顔で愛香の顔を見る>
律:えっと、どちら様ですか?
<愛香は困ったような笑顔で律を見つめる>
愛香:私は声楽科の園部愛香(そのべまなか)。
雪乃とは高校からの付き合いなの。
それで、貴女は?
律:そうなんですね。ボクは、白沢律(しらさわりつ)です。
愛香:白沢、律……。もしかして、ピアノ科の?
律:ええ、そうですよ。
愛香:それじゃあ……貴女が『あの』白沢さんなのね!
律:いや、『あの』とかはわからないですけど。はい。
愛香:白沢さんは、今年の学内コンクールには出るの?
律:え? いや、別に出るつもりはないですけど。
愛香:そうなの?
律:ええ、まあ。
<愛香は手を合わせると、律に一歩歩み寄る>
愛香:じゃあ! もしよかったら、私の伴奏……弾いてくれないかな?
雪乃:……え……?
愛香:実は今、伴奏できる人探してるの。
律:伴奏、ですか。あんまりやったことないですけど。
愛香:実は私ね……白沢さんのピアノで、歌ってみたいと思ってたのよ。
律:え? ボクのピアノ、聴いたことあるんですか?
愛香:ええ。高校のときに――国際学生音楽コンクール、私も出てたの。
その時に、雪乃と一緒に……ね?
雪乃:は……はい……。
律:えー! 雪乃も聴いたことあるの!?
言ってよー!
雪乃:ご、ごめん……。
律:(頭を掻いて)なんだー、なんか照れるなぁ。
愛香:どうかな。もしよかったら、だけど……。
律:うーん……伴奏かぁ……。
<律が顎に手を当て悩んでいると、雪乃は無意識に律の服の裾を掴んでいる>
律:……ん? どしたの、雪乃。
雪乃:あ、いや……! なんでもない、ごめん……。
律:……。
<律は雪乃の様子を見て、口元に笑みを浮かべる>
律:すみません、えっと……園部先輩、でしたっけ。
伴奏のお話、お断りします。
愛香:……そう。残念ね。
<愛香は困ったような笑顔を浮かべる>
律:じゃあ、そろそろご飯行こうか!
雪乃:あ……うん。
愛香:ごめんなさい、お邪魔しちゃったかしら。
律:いいえー! ほら! いこっ、雪乃。
雪乃:あ、ちょ……! 律……!
<律は雪乃の手を掴むと早足で正門へと向かう>
<その後ろ姿を見ながら、愛香は伸びをする>
愛香:うーん! なんか、嫌われちゃったかなぁ……。
残念……。
◇
<律に連れられて雪乃は駅前の方へ歩いていく>
雪乃:律……!
律:何ー?
雪乃:ちょっと……! なんでそんなに急ぐの……!
律:ん?
<律は立ち止まる・雪乃は息を切らしている>
律:だって、雪乃が言ったんじゃん。
雪乃:は? 私が……なんて?
律:『あの人と一緒に居たくないよー!』って。
雪乃:う、嘘!? そんなこと言ってないよ……!
律:あははは! 言ってたよ!
ちゃんと聞こえてたし。
雪乃:言ってない……!
律:ううん。
<律は雪乃の目をじっと見つめる>
律:瞳が、言ってた。
雪乃:……なに、それ……。
律:わかるんだよ。ボクにはね。
<律はゆっくりと雪乃の手を引く>
律:さ、行こう!
雪乃:あの……! 手、もう、いいから……。
律:んー? 雪乃はいや? ボクと手つなぐの。
雪乃:そうじゃ、ないけど……。
恥ずかしいから……。
律:それ、ボクも!
雪乃:……え?
律:恥ずかしいけど、でも、暖かいよ。
<律はふと空を見上げる>
律:……あ。
雪乃:……雨。
<雨が振り始めると、二人の頬を濡らす>
律:急ごう!
雪乃:……うん!
<二人は手を繋いだまま、駅前へ走っていく>
◆
<万智は自室のピアノの前に座っている>
万智:音楽は――ダメな恋人……。
<万智はゆっくりと鍵盤に指を触れる>
万智N:集中……しなきゃ……。
表現、音色、指のタッチやペダリング、姿勢と目の動き……。
バロック曲は他の時代の曲よりも、正確さが重要……。
曲についての理解と、楽譜との対話……評価基準……。
……そして……私の、ピアノ――
<万智はゆっくりとピアノを弾き始める>
<美しいメロディが部屋に鳴り響く>
<しかしふと、万智の脳裏に雑念が浮かぶ>
万智N:本気で向き合えば……学内コンクールで勝てる……?
間
<万智は演奏をやめると、宙を見上げる>
万智:……何、してんだろ。私……。
間
万智:なんのために……。
<ふと、隣の部屋からピアノの音色が聞こえる>
万智:……この、ピアノ。
<万智はカーテンを開けて、ベランダのドアを開ける>
<他の学生達の練習の音色が響く中、ひとつ上の部屋からピアノの音が聞こえてくる>
万智:……この音……。
万智N:ひとつ上の部屋から漏れる音。
正確で、大胆で、まるで音の粒がまっすぐ自分めがけて飛んでくるような立体感。
譜面には書かれている以上の――圧倒的な個性と、美しい旋律。
万智:白沢……律……。
<万智は拳を握りしめる>
万智:どうして……! どうして……貴女は……!
◇
<律の部屋。律はピアノを弾いている>
律N:ピアノは――楽しい。
小さい頃からずっと、ボクの側にはピアノがあった。
ボクがピアノに触れると、楽譜から音符が飛び出してきて、ボクの弾くピアノに合わせて動き回る。
跳ねたり、踊ったり、うねったり、怒りや悲しみに浸ったり――
そうしているうちに、ボクの周りにはたくさんの人が集まってくるようになった。
「君は天才だ」「もっと上手になりたくないかい」「もっと大勢の前で弾いてみよう」
ボクは言うことを聞いた。ピアノと一緒に居たかったから。
でも、あの人達の言葉には、メロディが無かった。
そして、ボクと音楽を縛りつけた。
だんだんと息ができなくなったんだ。暗い海の底に、僕一人で。何の音も聞こえなくて――
<律はピアノを弾く手を止める>
<雪乃は席を立つ>
雪乃:……律、どうしたの?
律:……うん。ちょっとね。
雪乃:無理しちゃダメだよ。
手、痛い……?
律:いや、痛くは無い。気分の問題かな。
雪乃:……そっか。
<雪乃は律の隣に座る>
律:病気なんじゃないかって言われて、色んな所で検査したんだ。
雪乃:……うん。
律:フォーカルジストニアにかかったとか、色んなこと言われてるのは知ってる。
大学側もさ、ボクがピアノを弾けるようになるように、サポートするとか言ってくれてるんだ。
授業に出なくてもいいとかさ。とりあえず大学にいてくれればいいんだって。
名前があることが大事なんだよ。きっと。
雪乃:……うん。
律:自分でもわかってるんだ。
<律は自分の手を見つめる>
律:楽しくないんだ。ピアノ。
だから、弾きたくないなんて――ワガママだよね。ボク。
<雪乃は律の手に自分の手を合わせる>
雪乃:……私はね。才能、ないんだ。
律:え?
雪乃:絵を描くのは好きだけど、誰かに褒められたり、求められたりしたこと、ないんだ。
だから、律の気持ちに寄り添ってあげられない。
律:そんなことないよ。
<律は雪乃を抱きしめる>
律:雪乃は才能あるよ。
ボクにはわかるんだ。
雪乃:(苦笑して)律……苦しいよ。
律:ご、ゴメン……!
<律が離れると、雪乃は小さく微笑む>
雪乃:だからね、嬉しかったんだ。
去年――律と始めて出会った時。
律:……うん。覚えてる。
雪乃:絵描いてて、良かったって思ったんだ。
絵を描いてたおかげで……あの日、律に会えたから。
律N:雪乃は、綺麗だ。
窓から漏れる月明かりに照らされて微笑む雪乃を見ていると、ボクの息は止まってしまうみたいだ。
雪乃はボクとは全然違う。いつも自信がなさそうで、でもボクを怒るときなんかはすごく強い口調で言う。
楽しい時は思いっきり笑うし、でも周りに人がいると、そういう気持ちも我慢してしまう。
雪乃の言葉には、メロディがある。
雪乃が見ている世界は、純粋で美しい。
純粋な雪乃にとって、この世界を生きることはきっと難しいんだと思う。
だから――ボクたちはこの星に住んでいるんだ。
二人だけの遊星に。
<律は立ち上がると、壁に掛けられた絵に歩み寄る>
律:この絵。
雪乃:……うん。
律:タイトル、まだ聞いてなかった。
雪乃:うん、そうだね。
律:……交換しよう。
雪乃:交換?
律:ボクが雪乃に……楽しいピアノを聴かせられた時に……タイトル、教えて。
律N:この遊星に、ボク達はいつまで住んでいられるんだろう――そんなことばかり、考えてしまうんだ。
だから、ボクは……。
◆
<二週間後・西東京芸術学園・音楽科キャンパス>
愛香:晴海さん!
万智:……園部先輩。
愛香:久しぶり。えっと……二週間ぶり?
万智:……ええ、はい。そうですね。
<万智は疲れた様子で視線を落とす>
愛香:……いい顔してる。
万智:……いい顔、ですか?
愛香:うん。向き合ってるみたいね――音楽と。
万智:……別に、そんなことないです。
<万智は肩をすくめる>
万智:ただ、雑念が消えるまで、弾き続けているだけです。
愛香:……雑念?
万智:はい。雑念です。
何もかも、私にとっては……雑念なんです。
<愛香は万智に向かって優しく微笑む>
愛香:私は、好きよ。そういう取り憑かれてる顔。
万智:……愛香先輩は、もう伴奏決まりました?
愛香:ええ。決まったわ。
<愛香は小さく微笑むと、万智に顔を寄せる>
愛香:白沢律さん。
<万智は目を見開く>
万智:……え?
◇
<雪乃と律は学食で向かい合っている>
雪乃:……伴奏?
律:うん。やってみようかなって。
雪乃:……そ、そう……。園部先輩の、だよね……。
律:うん。そうだよ。これから練習。
雪乃:……そっか。
律:あの人、声楽家でもすごい人だって聞いたし。
雪乃:……うん。知ってる。
律:だから、あの人の伴奏してたら、楽しいかもって思ったんだ。
雪乃:……うん。そうだね。
間
律:ごめん! そういうことだから、ボクもう行くね!
また、夜に部屋に遊びに行く!
雪乃:あ。
<律はトレイを持って席を立つ>
<律の後ろ姿を見ながら、雪乃は小さく呟く>
雪乃:……律……。
◇
愛香:何度か声を掛けて断られたんだけど、この間オーケーをもらったの!
万智:そう、ですか。
愛香:そうですかって……それだけ?
<愛香は頬を膨らませる>
愛香:晴海さんが半端な代わりじゃダメだっていうから、私頑張ったのよ?
万智:……そうでしたね。
<万智は不機嫌そうに拳を握りしめる>
万智:いいんじゃないですか。白沢律なら。
愛香:でも彼女って一年くらいまともにピアノ弾いてないって言ってたのよね。
病気にかかって留年したって聞いたこともあったし――
万智:病気じゃないですよ。
<万智は目を細める>
万智:私、彼女とは同期だったので。
授業にもいないし、それで教授に確認したんです。
だから……本人から聞いたわけじゃないですけどね。
愛香:そう。なら、気持ちの問題、かしら。
万智:さあ……知ったことじゃないです。
<万智は愛香に背を向ける>
万智:でもまぁ……安心しました。
白沢律は、天才ですから。
<歩き去る万智を見つめながら、愛香は小さく微笑む>
愛香:天才かぁ……楽しみだな。
◆
<西東京芸術学園・ピアノ練習室E-6>
<愛香の歌に合わせて、律が伴奏をしている>
律:……どうですか?
愛香:うん! すごく歌いやすいわ。
リズムも正確だし、すごく上手!
律:なら良かったです。
愛香:でも、もうちょっと――
<愛香は律の方に歩み寄る>
愛香:――楽しそうに弾いてほしいなぁ。
律:楽しそう?
愛香:うん。もっとあなたが弾きたいように弾いて欲しいの。
律:弾きたいようにって……それを言うなら園部先輩が歌いやすい方がいいんじゃないですか?
愛香:私も歌いやすいように歌うわ。
<愛香はまっすぐに律を見つめる>
律:どういう意味ですか?
愛香:なんかねぇ……音が踊ってないのよ。
律:……え?
<愛香はその場で踊るようにくるりと回る>
愛香:もっとこう……! 音が踊ってたんだもん!
前に貴女の演奏を聞いた時は、もっと自由で! 音符に表情があったの!
律:音符に、表情……。
愛香:評価基準や安定感なんてもの、今は気にしなくていいの!
舞台に立つのは、私と白沢さん――でしょう?
まずは私達が思い切り気持ちよくやらないと……でないと、音楽とは歌えない。
<律は一度目を閉じると、ピアノに手を置く>
律:ボク、わかりますよ。それ。
愛香:うん。だと思った。
律:じゃあ、結構好き勝手にやりますね。
愛香:ええ。
<律が鍵盤に手を置くと、愛香は目を瞑る>
愛香:さぁ、音楽を始めましょう。
律:……はい。
◆
<雪乃は部屋の前にしゃがみこんでいる>
雪乃:……律……遅いな……。
間
雪乃:伴奏……楽しいのかな……。
間
万智:……何してるの。
雪乃:……え?
<雪乃の隣に、万智が立っている>
雪乃:あ……隣の……。
万智:……そんなところに座っていられると邪魔なんだけど。
雪乃:す、すみません……!
<雪乃は慌てて立ち上がった>
万智:……で、何してるの。
雪乃:え? あ、いや……。
友達を……待ってて……。
万智;友達って、白沢律?
雪乃:……え?
<万智はじろじろと雪乃を見つめる>
万智:そっか……あなたも一緒なんだ。
雪乃:……一緒……?
万智:置いてかれた?
<雪乃は目を見開く>
万智:聞いてるでしょう。白沢律が声楽科の園部愛香先輩の伴奏やるって。
雪乃:……はい。
万智:私が、園部先輩の伴奏担当だったの。
間
万智:急に「やらなくていい」って言われて。
それで、後釜が白沢律ってわけ。
<万智は鞄の紐を強く握る>
万智:結局……天才には天才がお似合いってこと。
はっきり言えばいいのに……誰も彼も、本当のことを言わない。
雪乃:……本当のことって……?
<万智は瞳に涙を滲ませながら、肩を震わせる>
万智:私には……才能がないって……はっきりいえばいいじゃない……!
雪乃N:その時――思い出した。
彼女の涙を見たのは、これが初めてじゃなかった。
◇
<雪乃の回想>
<高校一年生の雪乃は、コンクール会場の外で、携帯電話に向かって話をしている>
雪乃N:高校生の時に見に行ったコンクール。
大勢の観客が見守る中、あの人は、一位をとった。
私はただ、憧れていた。キラキラと光る才能と自信が、あのステージに溢れていた。
雪乃:(電話口に)……はい。本当に、本当にすごかったです……!
……あの……おめでとう、ございます……!
……え? あ、いや……はい……。私も、嬉しいです。
えっと……そうですね、先に、帰ります。
それじゃ、また……。
雪乃N:私が携帯を閉じると、会場の隅のベンチに座っている少女に気づいた。
綺麗なドレスに、整えられた髪――きっと、大会の出場者なのだろう。
少女は、しばらく自分の手を見つめた後、肩を震わせた。
万智:……クソ……。
雪乃:……え?
雪乃N:少女は、ベンチの済に置いてあったかばんから、ファイルを取り出す。
そして、ファイルの中から紙を抜き出した。
万智:くそおおおおお!!!
雪乃N:彼女は紙を思い切り放り投げた。
その中の一枚が私の足元に滑り込んでくる。
雪乃:……楽譜……。
雪乃N:それは、幾つもの書き込みがされている――ピアノの楽譜だった。
万智:うああああああ!!!
雪乃N:ベンチに座り込んで泣き崩れる彼女の姿が、コンクールのステージと重なった。
少し背を丸めた姿勢で、とても美しい旋律を奏でていた――準優勝者の少女。
万智:どうして……! どうして!
なんで! あんなに……! あんなに頑張ったのに……!
雪乃N:癖のついたページ。楽譜に書き込まれた文字。
鮮烈なほどの努力の先に――その人は座り、打ちひしがれ、そして――
万智:私には……! 才能がないんだ!
雪乃N:その言葉は、私の心に深く――深く、突き刺さった。
<回想終了>
◇
<万智は服の袖で目元をこする>
万智:……ごめんなさい……なんか、変なこと言って……。
雪乃:……いえ。
万智:ひとつだけ……言わせて。
……才能がある人間って、残酷なのよ。
雪乃N:「才能がある人間は残酷」
ああ――なんて身につまされる話だろう。
◆
<その日の夜・雪乃の部屋を開ける律>
律:……雪乃?
間
律:雪乃、ごめん遅くなって――
<真っ暗な部屋、月明かりに照らされながら、雪乃はイーゼルの前に座っている>
律:……絵、描いてたの……?
雪乃:……うん。
律:部屋、真っ暗だよ。
雪乃:……うん。
<律が近づくと、イーゼルには真っ白なキャンバスが置かれている>
律:……まだ、真っ白だね。
雪乃:……うん。
律:……電気、点ける?
間
雪乃:……ううん。
律:……そっか。雪乃、明るいの、苦手だもんね。
雪乃:……そうなのかな?
間
雪乃:わかんなくなっちゃった。
律:……何が?
雪乃:私ってね。虫なの。
<律は雪乃を後ろから抱きしめる>
律:……虫って、どういうこと?
雪乃:明るい光があるとね、飛んでいくんだ。
そして近くで羽ばたいて……でも、それだけ。
熱で焼かれて死んじゃうの。
律:……雪乃……。
<律は雪乃の髪に顔を埋める>
律:……ボクが抱きしめると、痛い?
雪乃:……痛いよ。いつも。力、強いんだもん。
律:……そっか。
雪乃:ねえ、律……。
私ね……頑張ったこと、ないんだ。
律:……うん。
雪乃:頑張ってもないのに、いつも自信がないんだ。
そんなの、変だよね。
スタートラインにすら立ってないのに、自信がないなんて、言えるはずないのに。
間
雪乃:律は……ピアノ、楽しい?
律:……うん。
雪乃:弾けるように、なった?
律:……うん。
雪乃:……そっか。
<雪乃はそっと律の手に触れる>
雪乃:少し、立ち寄っただけなんだよ……律は。
律:……え?
雪乃:だから、ここにいるんだよ。
律:どういう、こと。
雪乃:ほんの少し休むときだけ、私のいる木の枝にいる。
でも、律が生きたい場所は、もっともっと高い空の上なんだ。
だから、こんなところにいたら、ダメだよ。
律:……ちょっとじゃんか……。
<律はそっと雪乃のそばから離れる>
律:ちょっとじゃんか! ちょっとボクが離れたら……! それでもうダメなの!?
雪乃:……律。
律:ずっとピアノが弾けたらいいねっていってくれたじゃんか!
ボクのピアノが聴きたいっていってくれたじゃんか!
愛香先輩の伴奏弾くことになったってだけで、もうボクはいらないっていうの!?
そんなのおかしいよ!
雪乃:律!
律:なんだよ!
<雪乃は涙を溜めて律を見ている>
律:雪乃……?
雪乃:ちょっとじゃない……!
律:え?
雪乃:ちょっとじゃないよ! 律はもう、ずっと遠くを見てるんだよ……!
律:何いってんだよ……!
そんなの……そんなの雪乃にわかるわけないじゃん!
雪乃:わかるよ! だって……!
<雪乃は律を抱きしめる>
雪乃:私は律のこと……誰よりも好きだから……!
律:……雪乃……。
雪乃:離れたくないよ……! ずっと一緒にいたいよ!
だから……! だからね――
<雪乃は律に口づけをする>
律:……雪乃。ボクは――
雪乃:だからお願い……。バイバイしよう、律……。
「少女遊星」第一話 終
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