備忘録:1933年11月3日、ロンドンへの道中にて
作者:紫檀


(※当作品は事実無根のフィクションであり実在の団体、人物、宗教、国家等とは一切関係ありません。また、人種差別を示唆、助長する物でもありません。)


男 ♂:64歳。
記者 ♂or♀:30歳弱。


※2019年1月18日 台本使用規約改定(必読)





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記M:馬車の中だ。暗い。まだ昼過ぎだと言うのに。ちらりと窓ガラスの向こうに目をやると空を覆う黒く厚い雲が見えた。黒く厚い雲が日光を遮り、故に、暗い。
目の前、向かいの席には壮年の男が一人。会話は無い。聞こえるのは馬車の骨組みが軋む音と、馬車の車輪が雨上がりの生乾きの地面を叩く音。
男は酷く憔悴しているようだった。彼は全長6フィートはあろうかという大男だったが、馬車に揺られ長椅子にもたれる彼の姿は決して気丈とは言えない。丸眼鏡の奥に覗く彼の眼差しは、決してしたたかではない。


彼は国を追われる身であった。彼の中に流れる血は、彼の祖国にのさばる走狗共の迫害の対象であった。
しかし彼は、諜者に追われる以前の彼は救国の英雄であり、連合国に楯突いた戦争犯罪人であり、祖国を勝利に導くために働いた優れたオルガナイザーであり、そして彼は、終始一貫して彼は…


男:私は科学者だ


記:……存じております。


男:そうあろうとし続け、そうあり続けたつもりでいた


記:貴方ほど多くの業績を残した科学者は歴史上でも類を見ないかと


男:…私ほど多くの爪痕を残した科学者もな


記:………


男:以前、ある男に言われたよ。お前の本質は科学者ではないと


記:…すると貴方は、一体どこに立っていらっしゃるのです


男:私の科学は…平和時は、社会のために


男:戦時は、祖国のために


記:愛国者(パトリオット)、ですか


男:良く言えばな


記:立派な考えかと


男:だが確かに、彼のような根っからの科学の探究者からすれば私は、私のような科学的才能が傑出(けっしゅつ)しただけの愛国者は…科学者とは言えないのかも知れん


記:思想がどうであれ、貴方が人類の発展に貢献した科学者であることは間違いありません。


(間)


男:空中窒素固定…


記:何度かえりみても素晴らしい発明です。それまで工業的に大量生産が難しかった窒素酸化物(ちっそさんかぶつ)を、まさか空気中から生み出すなんて。錬金術と言ってもいい。


(錬金術、という単語に男は僅かに口角を上げる)


男:錬金術か


記:はい、貴方のお陰で多くの国民が飢餓から救われた。硝酸態窒素(しょうさんたいちっそ)は良質な肥料の製造には不可欠ですから


男:良質な火薬の製造にも不可欠だ


記:………


男:仕方の無いことだ。仕方の無いことなのだよ。何より他の誰でも無い私が、私自身が、そうあることを望んだ


記:戦時は、国家のために


男:そんな私に、かの男の遺した賞典が、かのケイ藻土ダイナマイトを世にもたらし黄金と炸薬の山を生み出した男の"アワード"が与えられるとは。何とも人類史に対する皮肉ではないかね。


記:………


男:錬金術と言えばな


(間)


男:海水から金を取り出そうとしたことがあったよ


記:それはまた、画期的な試みを


男:失敗したがね


記:………


男:実験を進めるに連れて、海水に含まれる金の量が推定に比べて余りにも少ないことが分かったんだ。


(男、笑いながら言葉を続ける)


男:四年に渡る大戦に敗れ、膨大な賠償金に喘ぐ祖国を救うための試みだった。
  ………結果は、私の研究人生でも類を見ない程の大失敗だった。


記:研究に失敗は付いて回る物だと言うことは、貴方が一番分かっているはずでしょう


男:勿論だとも


男:その私の諦めの悪さこそが、人類に窒素を思うがままに使役させえた、"プロメーテウス"であるということは十分に自負しているつもりだよ


記:そこまで言えるなら


記:やはり貴方は、科学者だ


(間)


男:その単語は


男:私にとっての電子(エレクトロ)だ


記:電子(エレクトロ)、ですか


男:そうだ電子(エレクトロ)だ。ああ、言い得て妙なものだな。そうだ。電子(エレクトロ)だ。


男:それは常に私と共にあり、私は常にそれと共にあろうとしてきた。そしてそれは、その電子(エレクトロ)の雲は、確かに常に、付かず離れず、望み通りに、私という人間に纏い続けた。


男:だがそれを引きつける私の本質。私の原子核(ニュークリウス)。中性子(ニュートロン)と陽子(ポジトロン)が凝縮した原子核(ニュークリウス)。科学という電子(エレクトロ)の雲を追い求めるエネルギーの源泉は、愛国心だった、と思う。


男:諦めの悪さと、愛国心の凝縮だ。


男:だから、私にとってのそれは電子(エレクトロ)だ。電子(エレクトロ)という本質であり、電子(エレクトロ)という本質ではないものだ。


記:…実に、科学者らしい見解ですね。


男:言い得て妙だろう。


記:ええ。


(間)


男:君と話すと、不思議な気分になるな。まるで…牧師に懺悔でもしているかのような


記:懺悔、ですか


記:そういえば、先生はキリシタンでしたね


男:ああ


男:私が先祖代々受け継いだ教えを守ることは、私にとって障害しか生まないと早くのうちに感じていた。だから君の思っている以上に昔から、私はキリシタンだ


記:宗教に執着を持たない所にも科学者らしさを感じると申し上げたら、気分を害されますか


男:それはキミ、科学者に対する偏見だよ


男:この世界を産み落とした母こそ、自然科学の母に他ならないのだから


記:そうすると、科学者こそ最も敬虔な神の信徒であると言える、かも知れませんね


男:最も大胆な冒涜者である、とも言えるがな


(男は笑いながら言葉を続ける)


男:改宗によって得られた物もあったかも知れないが、結果は君も知っての通りだ。信じる教えは変えられても身体に流れる血は換えがきかぬ。


記:あのゲフライター上がりの首相の蛮政には、目に余る物があります。自国の発展を支えた科学者達を悉く追い出すなど…


男:かつて私と共に窒素固定技術を生み出した技術者が、「"彼ら"を追放することは、我が国から物理や化学を追放することである」と奴に諫言(かんげん)したことがあった。


記:全くもって、違いありません


男:その時の奴の返答がこうだ。「それならこれから百年、我が国は物理や化学もなしにやっていこうではないか」


記:……正気の沙汰とは思えませんね


男:正気でなくとも奴は本気だ。今では全科学者の四人に一人、物理学では三人に一人が国を去った。この大脱出(エクソダス)は間違いなく、少なくとも奴等が倒れるまで、我が祖国の科学を不毛状態へ陥れるだろう。


(間)


男:今はもう…祖国ではないがな


記:………


男:皮肉な話だ。半世紀もの間祖国を思い続けて生きてきた男が、祖国に追われてその生涯を終えようとしている


記:………


男:私は、長く生きすぎた





記:それでは……いけないと思います


男:なに


記:貴方は、失意の果てに死ぬべき人間ではありません。貴方は裏切られたまま、諦めに沈んだまま死ぬべき人間ではありません。


記:貴方は、報われなければならない。浮かばれなければならない。祝福され、敬意を表され、愛と感謝のうちで生涯を全うしなければならない。


記:貴方の歩んだ人生は、社会に正当に評価されなければならない―――


記:……と、思います…


(男はしばらく驚きに目を見開いていたが、やがて皮肉げな表情で口を開く)


男:驚いたな、まさかそこまで買い被られていたとは。君らの国では私は、先の大戦で非人道的兵器開発の先頭に立ち、多くの兵士を怨嗟の混沌へと送り込んだ悪魔だと語られていると聞いたが―――


記:ガス兵器は、非人道兵器ではありません


(記者の言葉に、男は息を呑む)


記:少なくとも…貴方の開発したものはそうではない。全て、そうではなかった。


記:全て、ある一つの信念の元に開発された。そうでしょう。


男:………


記:塩素ガスにしても、ホスゲンにしても、イペリットにしても、


記:全て、より少ない損害で戦意を喪失させるという確固たる信念のもとで、毅然たる信条のもとで、それらは造られた。そうでしょう。


男:………


記:そもそも兵器とは、武器とは、人間同士で争うというどうしようもなく非人道的な目的の元に造られた時点で、その時点で、最新鋭の機関銃から古代の銅の短剣まで余す所なく全てが、例外なく人道を踏みにじっている。


記:だのに何故、何の大義名分のもとで、お前たちのホスゲンは人道的ではない、イペリットは人道的ではない、だが我々の使う銃器は人道にかなっている、そんな言い分が通るのでしょうか。


記:あってはならない。そんなことが、あってはならないでしょう。


男:分かった、分かっている…


記:だから貴方は、決して邪悪な大量殺戮者などではない。決して冷徹非情の愛国者などではない。
貴方は髪毛の末から足の爪先に至るまで、五臓六腑(ごぞうろっぷ)を挙げ、耳目口鼻(じもくこうび)を挙げ、ことごとく、ことごとく…


記:人類の発展に尽くして来た一人の、科学者だ


男:分かった。もういい。もういいのだ


(間)


男:ありがとう


(間)


記:あ……いえ、大変な失礼を働いて…申し訳ありません


記:申し訳ありませんでした


男:いい。いいのだ。よく分かった


男:どうやら私は君に、君に感謝せねばならない


記:決して礼に及ぶことでは。むしろ…


男:君は記者としてではなく、君自身のエゴを、私に見せてくれた。


男:それも思わずだ、思わずと言った様子でだ。思わず、君という生(なま)の人間が抱いたエゴを私に見せ付けた。押し付けた。…思わず、我知らずと言った様子でだ


男:私にはそれがたまらなく、たまらなく嬉しいんだ


(間)


(男、窓の外に視線を移す)


男:見たまえ、晴れ間だ


男:先程まで暗雲に覆われていた空が、嘘のようだ


(記者、窓越しに空を覗く)


記:ええ、本当ですね


(間)


男:そろそろ、君達の国に着く頃かね


(記者、窓から視線を外し、時計を見遣る)


記:ええ、間も無く


(間)


(馬車が少しずつ速度を緩める)


記:確かに貴方が言われた通り、私達にとってみれば


記:貴方の名を聞くことを快く思わない者の方が多いでしょう


男:仕方の無いことだ。私は―――


記:しかし私は


記:私は、貴方を、先の大戦を無為に長引かせた非道の指導者ではなく


記:貴方を、人類史に躍進をもたらした一人の偉大な科学者として、敬愛と心服をもって、我が国に歓迎致します


(馬車が止まる)


男:…ありがとう


男:また何処かで、君に会えるといいなあ


記:会いましょう、必ず


記:そして次の機会では、懺悔よりも武勇伝をお聞かせ願いたいものです


男:それは


(男は悪戯気な表情を浮かべる)


男:記者として、かね。


記:……記事に載せる原稿を書き下ろす作業は、私にとっての電子(エレクトロ)のようなものですよ


(男、笑う)


男:よろしい。実によろしい


男:思えば


男:本質など、どうでもよいのかも知れんな


(間)


記:確かに貴方は、飽く無き真理の探求者ではない


記:だが貴方は、終始一貫して貴方は…


男:もうよい。よいではないか


男:終始一貫して私は科学者だ


男:いままでも、これからも


男:これでよい


記:ええ


記:さようなら、科学博士様(ヘル・ドクトル)




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