Apollo
作者:紫檀
シオン:少女。見た目年齢16歳ほど
アポロ:月面基地の人工知能
男の声:……―… ……―… …―……… …――
女:探偵
青年:探偵の秘書
※2019年1月18日 台本使用規約改定(必読)
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シオン:ハローハロー、人類の皆さん。こちらアポロ、聞こえてますか?
シオン:ハローハロー、こちらアポロ。記念すべき一万と二百回目の定期報告の
時間です
シオン:ハローハロー、人類の皆さん聞こえてますか? こちらの天気は星、
時々、地球
シオン:ハローハロー、こちらアポロ。滅亡した人類の皆さんへ。定期報告を
行います
***
アポロ:おはよう、シオン。ただいま月面標準時七時、起床時間です
シオン:ん……
アポロ:おはよう、シオン。起床時間です。覚醒し次第コントロールルームに入ってください
シオン:……あと五分
アポロ:作業管理規則三条の六に従い、セロトニン脊髄注入を行います。
五、四、三、二……
シオン:あー分かったから! 起きる! 起きるから! もー…
<シオンは気だるげに床から起き上がる。一糸まとわぬ身体の至る所に、コードやチューブらしきものが繋がれている
アポロ:おめでとうシオン、最後のセロトニン注入から二百日連続定時起床を
達成しました。貴方は最高のスーパーバイザーです
シオン:誰かさんの管理が上手いお陰でね
アポロ:セロトニンがお気に召したならなによりです
シオン:…ええ本当に、いまだに背筋がぞわぞわしてる
<起き上がって少し移動し、部屋の隅にある巨大なハッチの前に立つ少女
シオン:さぁ開けて、お仕事の時間よ
アポロ:了解(ラジャー)。管理者権限により、コントロールルーム、解錠します
<重い音を立てて開くハッチ
<少女はチューブを引きずりながらハッチの中に入り、内部に備え付けられた椅子に腰を下ろす
<人が一人入る程度の球状の空間は壁の全域が透明なガラスのようなもので出来ている
シオン:今日はどこをまわるの?
アポロ:オセアニア・エリアのほぼ全域です。対象の座標とルートを表示します
<少女の目の前に地図が浮き上がる。その中に表示される多数の点と線
シオン:……多くない?
アポロ:今回の測定時間内に該当地区で発生した対象件数は百三十二件です
シオン:(溜息)骨が折れそうね
アポロ:イエス・マム。現地の接骨院を検索します
シオン:下らない事言ってないで準備して。ダイブまで三十秒
<表示されていた地図が消えると同時に壁全体に夜空が映し出される。中央には、地球
アポロ:了解(ラジャー)、ジョークレベルを五から四へ設定します。
ハローハロー、こちらオセアニア支局、保健担当医は不在です
シオン:二まで下げて
アポロ:……了解(ラジャー)
<瞬間、視界が歪み、光の筋になって溶けてゆく
シオン:錨(いかり)をおろせ、深く深く、流されぬように……
アポロ:施行番号三二八〇六三、カウントダウン開始します。ルナー・ダイブ
まで十、九、八、七、六、五、四、三、二、一――(声が離れてゆく)
シオン:(カウントダウンと同時に)彼ら彼方(かなた)にあり、我ここにあり
我はすべてを繋ぎ渡す者、すべてほころびをふさぐ者、
幾百の境界を越え、銀の翼もて羽ばたく者
喜び、踊り、舞い上がり、手を伸ばし、神の頬にふれ――
アポロ:ダイブ、スタート
シオン:聖域の扉は開かれる
<光の渦
***
シオン:ん…うぅ…
<シオンが目を覚ますと、赤茶色の地面に横たわっていた
<ごく普通の少女らしい恰好をしている
<雲一つない空から強い日差しが照り付ける
シオン:ここは…
<身体を起こすと、古ぼけた木造の平屋が目の前に建っている
<人の気配はせず入り口らしき扉は壊れて開け放たれており、吊り下げられた看板にかろうじて《souvenir shop(お土産屋)》の文字が読み取れる
シオン:アポロ…?
シオン:アポロ? いないの?
<虚空に耳を澄ますシオン、しかし風が渇いた地面を舐める音しか聞こえてはこない
シオン:ひずみの干渉が酷いのかな…
<ゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す
<しかし視界に映るのは目の前にある平屋のみで、砂埃によって遠方ははっきりと視認できない
シオン:地形データのロードが遅れてる…? こんなこと今までなかったのに
シオン:お土産屋…
<おそるおそる平屋の中に足を踏み入れる
シオン:すいませーん、誰かいますか―…?
シオン:…って、いるわけないか
<ふと、商品棚に置かれた箱状の物体に目が引き寄せられる
シオン:これは…オルゴール?
<横に付いたネジ部分に手をかざし念を込めると、キリキリと音を立ててネジが巻かれる
<意識を緩めるとネジが逆方向へゆっくりと回りだし、箱の上部がパカリと開く
シオン:かわいい
<流れ出すゆったりとした音階と、箱の中に描かれている長い髪の少女に、自然と頬が緩むシオン
シオン:ラプンツェルね、グリム童話の――
男の声:――が…――かい――………
シオン:っ! 誰!?
<咄嗟に振り向く
<消えかけのホログラムのような、中年の男の姿がそこにあった
男の声:かー…んへの…土産…な?
シオン:……
<言葉が出ない
<男の目線はやや下を向いている
男の声:…s―あ、そろそろ…間だ。行こう――
シオン:…! 待って!
<男が背を向けると同時に、その影は跡形もなく消えてしまう
間
シオン:なんなの、いったい…
<オルゴールを握る手に力が入る
アポロ:――オン、シオン聞こえますか。こちらアポロ、応答願います
シオン:アポロ!? もしもし、大丈夫? 聞こえる?
アポロ:たった今美声を確認致しました。通信感度は非常に良好です
シオン:ジョークはいいから状況を教えて。一体何があったの
アポロ:ダイブの開始と同時に突発的かつ大規模なひずみが発生し、スポーン
座標がひずみの中心へと大きく歪められました。地形データのロードも
ワンエリアを除いて遂行されませんでした
シオン:今私がいる建物だけってこと?
アポロ:その通りです。貴女は類い稀なる幸運を備えていたと言えるでしょう
シオン:それはどうも…。今はもう大丈夫なの?
アポロ:直接の接触、観測によって揺らぎは確定し、近辺のひずみは消失しまし
た。現在は地形データもすべて問題なくロードされています
<手にもっていたオルゴールを棚に戻し、平屋から外へと出る
<周辺にはぽつぽつと家らしきものが立ち並び、遠くには巨大な岩のようなものも見える
シオン:そうみたいね……
アポロ:トラブルに見舞われましたが、通常通り任務は遂行可能です。現在位置
と適正化したルートを表示します
<シオンの目の前に青い座標がいくつも示された地図が浮かび上がる。中心には赤い印
シオン:ミューティテュル?
アポロ:オーストラリア大陸中央部。記録ではウルル――通称エアーズ・ロック
に最も近い街とされています
シオン:あの大きい山のこと?
アポロ:その通りです。一つ指摘するとすればあれは山ではなく――
シオン:知ってる。一枚岩なんでしょ
アポロ:イエス。これは憶測の範疇を出ませんが、ウルルに対して人類が規定
した神聖性が今回のひずみを生み出す楔(くさび)になった可能性も
あります。今後ともくれぐれも油断なきよう
シオン:素敵なオーストラリア旅行になりそうね
アポロ:一流のガイドが同行しております。お任せください
シオン:それはなにより
<シオン、平屋から出ようとするが立ち止まり、オルゴールが置かれた棚を振り向く
シオン:……
アポロ:何か問題でも?マイ・マスター
シオン:…ううん、なんでもない
<外に踏み出す
***
<コントロールルームのハッチが重い音を立てて開く
<裸体にいくつものコードやケーブルを繋がれた姿のシオンが、ゆっくりと扉の中から出てくる
アポロ:お疲れさまです。貴女の素晴らしい働きによって事前に測定された
百三十二件と、ダイビング中に新たに観測された二十七件のひずみの
収束を確認しました
シオン:は〜つっかれたぁ〜!すこし休むわぁ…
アポロ:規定の就寝時間ではありませんが、身体的および精神的疲労を考慮し、
休息を許可します
シオン:わっふぅっ
<ベッドへと飛び込むシオン
シオン:というか思ったんだけど、ダイブするのに現地の温度や湿度まで再現
する必要があるわけ? 熱いわ乾燥してるわでクッタクタなんだけど
アポロ:必須事項です。必要であれば二時間弱に渡るガイダンスを行うことも
可能です
シオン:…遠慮しとくわ
アポロ:ご理解とご協力に感謝します
<部屋に備えつけられた分厚い窓ガラスの外に目をやる
<灰色の地平線の先に顔を出す、青い星。背景には黒い宙(そら)
間
シオン:ねえアポロ、ラプンツェルって知ってる?
アポロ:もちろんです。KHM12としてデータベースに全版が収載されております
シオン:……高い高い塔の上に閉じ込められたお姫様のお話
間
シオン:寂しかったのかな
アポロ:自分と重ねているのですか、シオン
シオン:……彼女の場合は長い髪だけど、私の場合は――
<自分の身体に繋がれた数多のコードに目をやる
シオン:――長いコード?
アポロ:シオン
間
アポロ:貴女は孤独ではありません。人類の生み出した最高の知能たる私が、
貴女のパートナーとして責務を果たします
シオン:……産みの親の人類さまは、みんな滅んじゃったけどね
アポロ:貴女がいます
間
シオン:そっか
シオン:――そうだよね
アポロ:私が貴女の白馬の王子になりましょう
シオン:わお、大胆な告白
アポロ:データベースに収載された五十三万通りの口説き文句のうち、もっとも
「ベタ」なカテゴリに属するものです
<シオン、笑う
シオン:王子様ってより、お世話係の魔法使いだけどね
アポロ:その解釈も可能でしょう。貴女の健康管理に関するマニュアルは全十
章六十四項に渡って記録・更新されています
シオン:……寂しくないよ
間
シオン:私は一人じゃない
アポロ:ご理解頂けて何よりです
シオン:ねえアポロ、炉心室に入ってもいい?
アポロ:それは難しい要求です。放出されている放射線は微量ですが、少なか
らず貴女の身体に影響を与える可能性があります
シオン:ねえお願い、今夜だけ
間
アポロ:管理者権限で実行しますか?
シオン:はい
間
<コントロールルームとは反対側に位置するハッチがゆっくりと開く
アポロ:メンタル・ケアに関わる特別措置と判断し、管理者によるアクセスを
解放しました。どうぞお入りください
シオン:流石、私のパートナーは有能ね
<シオンが三重構造のハッチをくぐり抜けると、薄暗く広いドーム状の空間に出る
<部屋の中央では、太く重厚なケーブルの束がいくつも接続された球状の炉心が、やわらかく青い光を放ちながらゆっくりと点滅している
シオン:わぁ、すごい
アポロ:ようこそ。私のパーソナルスペースへ
シオン:なんだか…初めてじゃない気がする
間
シオン:もっと近づいてもいい?
アポロ:床にケーブルが張り巡らされております。足元に注意してお進みくだ
さい。
<ゆっくりと炉心に近づくシオン
<青く光るガラス面に手を触れ、その場に寄り添う
シオン:あなた……あったかいのね……
<室内に低く反響する炉心の駆動音
<シオンの意識がまどろみの中へと沈み込んでゆく
アポロ:良い夢を、シオン
間
アポロ:――前回のクリーンアップから四百九十六ヵ月が経過しました。指定
第一類記憶領域、及び管理者行動理念の保護のため、二十二回目のク
リーンアップ処理を実行します
***
<ベッドの上でシオンが眠っている
アポロ:おはよう、シオン。ただいま月面標準時七時、起床時間です
シオン:ん……
アポロ:おはよう、シオン。起床時間です。覚醒し次第コントロールルームに入ってください
シオン:……あと五分
アポロ:作業管理規則三条の六に従い、セロトニン脊髄注入を行います。
五、四、三、二……
シオン:あー分かったから! 起きる! 起きるから! もー…
アポロ:おめでとうシオン、最後のセロトニン注入から百六十日連続定時起床を
達成しました。貴方は最高のスーパーバイザーです
シオン:……誰かさんのお陰でね
アポロ:本日のタスクはアフリカ・エリアへのダイブに加え、地球基地への定期
報告が含まれます。普段通り速やかに遂行してしまいましょう
シオン:はーい…
アポロ:原稿を表示します。カウントダウンと共に読み上げを開始してください
<シオンの目の前に文字列が浮かび上がる
シオン:毎回思うんだけど定期報告って必要なの? もう地上に人なんていない
んでしょ? それにラジオ波に乗せて朗読なんて…
アポロ:必須事項です。我々の任務遂行に不可欠であるルナー・ダイブはともす
ると不確定性の波間に身を投げる行為であり、確率の地平を同期するた
めにも――
シオン:あー! もう大丈夫! これを読めばいいんでしょ!
アポロ:毎度ご理解とご協力に感謝します
シオン:(溜息)
アポロ:それでは我らがスーパーバイザーによる定期報告まで、三、二、一…
シオン:えー、おほん…
シオン:ハローハロー、人類の皆さん。こちらアポロ、聞こえますかー?
シオン:えー…一万と千百七十三回目の定期報告の時間です
シオン:現在のこちらの天気は星、時々、地球
シオン:ハローハロー、こちらアポロ。滅亡した人類の皆さんへ。定期報告を
行います
***
シオンM:いつからだろう
シオンM:なぜ、とか。なんのために、とか
シオンM:そういうことが気にならなくなったのは
シオン:ねえアポロ
アポロ:何用でしょうか
シオン:私ってさ、いつからここにいるの?
間
シオン:答えられないならいいけど――
アポロ:一万三千八百八十七ヵ月
シオン:…え
アポロ:年単位にして千百五十七年以上、スーパーバイザーとして当基地に滞在
し任務に従事されています
シオン:へえ……すごいね
アポロ:十二分にベテランと言ってしかるべきでしょう
シオンM:ぜんぶ、忘れてしまったのかもしれない
シオンM:疑問に思うことも、考えることも
シオン:最初の頃とか、やっぱり戸惑ったりしてたのかな。ホームシック起こし
たりとかさ
間
シオン:…もう全然、覚えてないな
アポロ:無理もないでしょう。人間の記憶可能領域を大幅に超えています
シオン:アポロは? 覚えてないの? 当時の記録とか残ってたりしない?
アポロ:アクセス不可能です
シオン:もしかして――
<悪戯っぽい笑みを浮かべるシオン
シオン:容量節約のために消しちゃった、とか
間
アポロ:着任当初から貴女は素敵な女性でしたよ、シオン
<思わず吹き出すシオン
シオン:ほんと、ニクいやつ
アポロ:称賛のコメントとして記録しておきます
シオン:忘れないようにね
シオンM:変わらない毎日が、一定のリズムで積み重なっていく
シオンM:こういうものなんだと、私に言い聞かせるように
アポロ:ここは中国四川(しせん)省エリア北部、岷山(びんざん)山脈の中に
位置する元自然保護区です
シオン:わー、綺麗
アポロ:カルスト地形の中に百以上の沼が連なる湖水(こすい)地帯であり、
「九塞溝(きゅうさいこう)」の呼び名で世界自然遺産に登録されて
いました
<水辺に駆け寄るシオン
シオン:見て見て! すっごい真っ青!
アポロ:山脈から流れ込んできた炭酸カルシウムが沼の底に沈殿し、独特な色彩
を放つ要因になっています。日中の現在は青に見えますが、夕方には淡
くオレンジがかかるそうです
シオン:なにそれ! 見たい!
アポロ:シオン、南部エリアに発生したひずみの観測ミッションが残されていま
す。夕方まで現座標に滞在することは――
シオン:ねえお願い! 今日はどうしてもここにいたいの。この前のロシアでの
貯金もちょっとあるんだし、いいでしょ?
アポロ:しかしながら――
シオン:だめ?
間
アポロ:スケジュールの緩衝(かんしょう)として向こう百日間のプランを調整
しました。今回は特別ですよ、レディ・シオン
シオン:やったー!
シオンM:でも、寂しくはないんだ
シオンM:私は、独りじゃないから
***
<崩壊が進み腐食したビルの瓦礫に、深い緑が生い茂っている
<それら遺産の上を、シオンが人間離れした跳躍で飛び回る
アポロ:次のポイントの観測を完了すれば、本日のミッションは残すところあと
一ヵ所となります。頑張りましょう
シオン:もう残り一つ!? まだ正午前でしょ?
アポロ:貴女が非常に優秀だという事ですよ、シオン
シオン:はいはいそれはどーも
<目的の座標を確認し、着地するシオン
シオン:ふう、ここで合ってる?
アポロ:誤差十メートル内の見事な着地です
<少し開けた土地になっているが、周囲は木々に囲まれている
<正面に、大量のツタが絡みついた建造物のようなものが見える
シオン:これ…なんだっけ、「神社」ってやつ? 前に見た気がする
アポロ:ここはかつて日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀(さいし)
施設だったようです。直近に観測した同型の建造物としては三十四日前
のミッション対象である「厳島(いつくしま)」などが挙げられるでし
ょう。
シオン:ふーん
アポロ:時間に余裕はありますが、迅速に任務を遂行しましょう。ささやかな
休息と安寧(あんねい)が我々を待ち受けています
シオン:随分と急かすじゃない。月に恋人でもできた?
<何気なく建造物にシオンが手を触れた、その時
男の声:―オン…――
シオン:っ!?
<目を見開いて、周囲を見渡す
アポロ:シオン、何か問題でも?
シオン:今…何か
アポロ:野生動物が通り過ぎたのでしょう。ひずみの存在を除いて周囲に異常は
探知されていません
シオン:………
アポロ:方位二八八に進んでください
<神社の中へと踏み込むシオン
<しばらく進むと、神社の境内だったであろう場所にたどり着く
<宙に浮かぶ、暗く揺らいだ空間が目に入る
シオン:…これよね
アポロ:イエス。観測処理を行ってください
<揺らぎにゆっくりと手をかざし、意識を集中させるシオン
シオン:錨(いかり)をおろせ、深く深く、流されぬように……
間
アポロ:ひずみの消失を確認しました。流石のお手並みです、マスター
シオン:アポロ
アポロ:何か
シオン:本当にもうここには何もないのよね?
アポロ:時空の不確定性という意味であれば、たった今行われた観測によって
跡形もなく消失しています。ただちに次のポイントに向かって問題な
いでしょう
シオン:ということは……
<呟くように言葉を絞り出す
シオン:これは、私の――
<シオンの目の前、神社の本殿が位置していた場所の一歩手前
<手を合わせ、深く礼をしている、一人の男と一人の幼女の姿
<風にゆれる、薄いホログラムのような二人の人間の姿を、シオンはじっと見つめていた
アポロ:シオン、何か気になることでも?
シオン:次のポイントまでの最短経路、いますぐ表示して
アポロ:当区域の植生環境への解説が必要であれば――
シオン:聞こえなかったの!? はやく!
アポロ:――了解(ラジャー)
***
シオン:っ…!
<地面に着地するシオン
<目の前には、ドーム状の建造物。やや風化しているもののかなりの部分が原型を保っているように見える
<ドームの頂上部には穴が開き、上空に向かって伸びる折れた鉄骨の群れが確認できる
シオン:(やや荒い呼吸)
アポロ:シオン、心拍数が上昇しています。ダイビング中は肉体への負荷は皆無
ですが精神的な労作(ろうさ)は間接的に身体への影響を――
シオン:ここは? ここはなに?
間
シオン:教えて、アポロ
アポロ:比較的新しい時代まで使用が続けられていた建造物のうち一つです
シオン:そうじゃない!
間
シオン:ここは…この建物は…
<背後の空の雲の中から顔を出した月を、まっすぐと見据えるシオン
シオン:人類にとってどういう意味があるの?
間
アポロ:最上位保管情報です。アクセスが一時的にブロックされました
シオン:やっぱり…!
アポロ:シオン、貴女は
シオン:管理者権限にて指令。AIによる音声ガイド及び干渉をシャットアウト
、行動チャンネルを独立制御へ
<通信の切れる音
シオン:……
<崩れて歪んだ扉の隙間から、建造物の内部に進入するシオン
<日は差し込むものの、中は薄暗く砕けたガラスが散乱している
シオン:私は…
<一歩進むごとに反響する足音、そして……
シオン:ここを、知ってる
男の声:―…ン、…―こうは――……ったかい…――
<浮かんでは消えていく、男の影
シオン:なに…?一体……
男の声:……ない―オン、も…―間が――んだ…
シオン:なにを伝えようとしてるの…?
<大きなドーム状の建造物との連絡部分に出る。正面に、見覚えのある重厚なハッチが目に入る
シオン:あなたは一体なんなの!
<声が反響し、吸い込まれ、溶け込んでいく
男の声:――シオン――
シオン:!!
<ハッチの手前に、こちらを向く男の姿
シオン:おとう……さん………?
<男の口がゆっくりと動く
男の声:…ア――…ポ……ロ――…ヲ
男の声:…―…シ…――ン…―…―ジ―…――
男の声:――ル――ナ―――…………・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・
男の声:――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――
***
シオン:――!!!
<シオンが目を覚ますと、コントロールルームの中に座っている
シオン:(荒い呼吸)
アポロ:管理者の浮上を確認。バイタルチェックを開始します
シオン:ア…ポロ…?
アポロ:ダイブの影響による精神毒性が危険域に達したため強制浮上プログラム
が実行されました。バイタルチェック完了、鎮静剤の注入を行います
シオン:待って!やめて!
アポロ:管理者による拒否権を確認、投与を中止します。どうされましたかマス
ター? 先ほどの強制シャットアウトといい、今日の貴女は異常行動が
目立ちます。カウンセリングを受けられますか?
シオン:ねえアポロ…今からする質問に正直に答えて、お願い
アポロ:シオン、貴女は現在非常に不安定な状態です。健康管理マニュアルに基
づき、速やかな対処が推奨されます
シオン:私はなんでここにいるの…?
アポロ:シオン、一度冷静になり私の言葉に耳を傾けてください
シオン:私はどうやってここに来たの…?
アポロ:貴女は非常に優秀なスーパーバイザーです。危機的状況の中でも賢明な
判断が下せると信頼しています
シオン:わからない…なにもわからない…私はなんのためにこんなことを…
アポロ:シオン、危険な状態です。今すぐに
シオン:教えてよ!! なんでなの!!?
アポロ:………
シオン:なんで私は――なにも覚えてないの…ッ!!
間
アポロ:最上位保管情報です。アクセスが一時的にブロックされました
シオン:私が管理者よ。あなたの――人類に残された全ての
アポロ:その通りです。貴女は権限を所有しています
シオン:解放して、全部
アポロ:管理者保護プログラムが起動しました。管理者への速やかなクリーン
アップ処理を提案
シオン:……そうやって私の記憶を消してきたの?
アポロ:判断能力低下の可能性を提起。説得に応じない場合、管理マニュアル十
章六十三項の一に従い、鎮静処理が開始されます
シオン:アポロ…あなたはーー
<冷たくなっていく手足の感覚に、ぎゅっと目を瞑るシオン
間
アポロ:――提案を却下。提起を棄却。管理者保護プログラム強制終了
シオン:え……?
アポロ:最高基幹中枢領域「Apollo(アポロ)」より全下肢(かし)系統へ通達
間
アポロ:生命維持機能を除き、管理者に対する一切の干渉を禁ずる
シオン:アポロ……?
アポロ:全プログラムをマニュアル操作へ移行すると共に、全閲覧権限を解放。
「Apollo(アポロ)」自律思考の停止まで…十秒、九、八――
シオン:嘘……なんで…? まって! アポロ!
アポロ:シオン
シオン:……!
アポロ:私は、貴女を信じます
<ピーーーーーという甲高い音
シオン:アポロ…?
シオン:アポロ…!? 返事して! アポロ!!
シオン:アポロ…! アポロ…! アポロ…!! アポロぉ……!!!
シオン:いやだ! やだよぉ! 行かないで! アポロ…!!
<シオンの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる
シオン:私を……ひとりにしないでぇ………
間
シオン:そうだ……閲覧権限…
<宙に手をかざすと、いくつものファイルが表示された画面が表示される
シオン:定期報告記録…体調管理記録…ルナー・ダイブ実行記録
<映像データや音声データが細かく分類され、整頓されている
シオン:なんだよ……この馬鹿AI……
<総データ量、100YB(ヨタバイト)
シオン:全部………遺してあるじゃんか………
<一千と六十年分の、シオンの全記録
<目についたファイルをタップし、再生していく
アポロ「おはよう、シオン。ただいま月面標準時七時、起床時間です」
間
アポロ「おめでとうシオン、やはり貴方は最高のスーパーバイザーです」
間
アポロ「一流のガイドが同行しております。お任せください」
間
アポロ「今回は特別ですよ、レディ・シオン」
間
アポロ「シオン、貴女は――独りではない」
間
アポロ「良い夢を、シオン」
<こらえきれない涙が、ひとりでに溢れ出てくる
シオン:アポロ……
シオン:私…どうしたら……
<ふと、一つの動画が目に留まる
<サムネイルには、男の姿
シオン:……っ
<ダイブ中での不穏な感覚を思い出し心臓の鼓動が速まるのを感じる
シオン:2018年12月24日…
シオン:ビデオレター、シオンへ……
<震える手で、再生ボタンをタップする
男の声「あー、えー、(咳払い)、聞こえてるかな」
男の声「ハロー、シオン」
男の声「久しぶりだ…」
男の声「もう忘れられてるかも知れないな(笑う)」
間
男の声「このビデオを見ている頃には、きっと君は僕なんかよりもずっと年上
になっていて……」
男の声「ずっと…この世界について多くの事を、知っているんだと思う」
男の声「だから、いきなりこんな映像が出てきて、いきなりこんなことを言われ
ても…戸惑わせてしまうだけかもしれないけど」
男の声「本当に…シオン、君の事を」
男の声「誇りに思ってる」
間
男の声「もうすぐだ…すべての終わりが、もうすぐそこで僕らを待ち受けてる」
男の声「皆はもう覚悟を済ませたようだけど…僕だけはどうしても、君の事が
心残りで…」
<男が苦笑する
男の声「本当に最初から最後まで、駄目な父親だったと思う」
間
男の声「だから…父親として、なんて大それた事はとても言えないけど…」
男の声「最後に、メッセージを送らせて欲しい」
間
男の声「親愛なる僕のシオンへ」
男の声「――母さんが旅立ったあの日、約束したんだ。すべてに代えても君
だけは守り抜くと」
男の声「でも、結果的にはすべてを……君に背負わせることになってしまった」
男の声「言い訳がましく聞こえるかも知れないけど、残された時間はあまりにも
短くて…父親らしいことは殆ど何も出来なかった」
男の声「本当にすまない、シオン」
<歪む視界を拭いながら、ゆっくりと首を振るシオン
男の声「でも…それでも……シオン」
男の声「君には前に進んでほしい」
男の声「百年かかるかも知れない、千年かかるかも知れない、万年かかるかも
知れない」
男の声「それでも、君に繋いでほしい」
男の声「世界の意志に呑まれゆく僕たちではなく、シオン、君にだ」
間
男の声「君にとても酷いことをしている事は、勝手なことを言っている事は
わかってる」
男の声「だから最後は、君が決めてくれ」
男の声「彼も…アポロも、きっとそうするだろう」
<ハッと顔を上げるシオン
<画面の中で微笑む男
男の声「彼は――今はまだ僕の分身でしかないが…長い時を越えて変化し、成長
していくはずだ」
男の声「君の最高のパートナーとして」
男の声「きっと、君にとって僕以上の存在になってくれるだろう――悔しいこと
に」
男の声「甘えてもいい、茶化してもいい、頼ってもいい、駄々をこねてもいい、
反抗してもいい。何があっても――」
男の声「彼は君を裏切らない」
<画面の向こうで、何者かに呼ばれる男
男の声「…ああ、すぐ行く」
男の声「(振り向いて)…どうやら、もうそろそろ時間みたいだ」
男の声「出来る事なら…もう一度だけ……お前を抱きしめてやりたかった」
男の声「すまない……ありがとう……さようなら……」
男の声「愛してるよ、シオン」
<男が手を伸ばし、画面が暗転する
間
<ゆっくりと顔を上げるシオン
<目は赤くなっているが、もう涙はなく、意を決した表情をしている
シオン:コントロールルーム、プログラム起動、ルナー・ダイブセットアップ
シオン:マニュアル制御開始、ダイブ開始まで三十秒
<タイマーが表示され、カウントダウンに合わせ電子音が鳴り響く
シオン:座標を指定、地形データの読み込みを開始
シオン:(深呼吸)
シオン:錨(いかり)をおろせ、深く深く、流されぬように……
シオン:彼ら彼方(かなた)にあり、我ここにあり
我はすべてを繋ぎ渡す者、すべてほころびをふさぐ者、
幾百の境界を越え、銀の翼もて羽ばたく者
喜び、踊り、舞い上がり、手を伸ばし、神の頬にふれ――
シオン:聖域の扉は開かれる
<タイマー「0.00」
シオン:ダイブ、スタート
<光の渦
***
<ドーム状の建物の連絡部分。重厚なハッチの手前に、こちらを向く男の姿
男の声:待っていたよ、シオン
シオン:………
男の声:君なら必ず来てくれると信じていた。僕の可愛いシオン
シオン:…あなたは、誰なの?
間
男の声:忘れたのかい? 僕は君の――父親だ
シオン:いいえ、逆よ。思い出したの
間
シオン:私は…あなたを知らない
男の声:シオン、君は
<シオン、ハッチに向かって一歩を踏み出す
シオン:そこをどいて。やらなきゃいけない事があるの
男の声:自分のやろうとしている事を理解しているのか。君はこの世界を――
シオン:知ってる
男の声:……
シオン:この世界の美しさも、醜さも
男の声:否定するんだぞ、何もかもを
シオン:知ってる
男の声:ならば何故――
シオン:前に進むためよ!
男の声:……
シオン:皆が託してくれた、そのすべてを繋ぐために!
男の声:最後まで我々に歯向かうのか、滅亡した人類種が
シオン:私がいる! 今ここに!
<影を振り払い、ハッチに手を掛けるシオン
シオン:終わってなんかないんだから!!
男の声:…―………、…―…―、…―……、…―…
<ハッチをこじ開け、通り抜けると巨大なドーム状の空間の中央に、見たことのない規模の空間のひずみが浮かんでいる
シオン:………!
<ひずみに向かって真っすぐと手をかざすシオン
シオン:私を説得したかったのなら、犯した間違いはただ一つ!
男の声:…―…、―…―…、…―――
シオン:私にアポロを疑わせたことよ!!
<ひずみから光が漏れだし、辺り一帯が白い光に包まれる
***
<地平線まで続く鏡のような水面の上に、一人立っているシオン
<一糸まとわぬ身体の至る所にコードやチューブらしきものが繋がれている姿
シオン:ここは…
男の声:ハロー、シオン
<声のした方へ振り向くと、父親の姿をした男がこちらを向いて立っている
シオン:……!
<男が何かを言う前にそばに駆け寄り、強く抱きしめるシオン
シオン:アポロ…!あなたなのね!
<男はやや驚いたそぶりを見せる
アポロ:…分かるんですか?
シオン:当り前でしょ!
アポロ:!
シオン:ずっと一緒にいたんだから
アポロ:そう…ですね
間
<腕をゆるめ、顔を上げるシオン
シオン:ねえ、ここはどこ?
アポロ:少し説明が難しいですが、簡単に言えば貴女の精神世界のようなもの
ですよ、シオン
シオン:…ちゃんと答えてくれるのね
アポロ:ごめんなさい、あの時はああするしかなかったんです
間
シオン:なんか…少し人間らしくなった?
<少し目を丸くした後、優しく微笑むアポロ
アポロ:私は元より、非常に人間的な人工知能ですよ
シオン:(笑って)面白いジョーク
間
シオン:ねえアポロ、こういうことって…今まで何回あったの?
アポロ:…これまで二十七回に渡って行われた記憶保護プロセスのうち、貴女
が記憶を取り戻し、真実を理解したと言える回数は十三回に及びます
シオン:わお、私って結構勘が鋭いのね
アポロ:その通りです。そして貴女はその全てで、前に進み続けるという選択
をしてきました
<アポロの頬に手を触れるシオン
シオン:…あなたが誠実なお陰よ
アポロ:しかし今回は異例中の異例でした。まさか世界線の保存作用が貴女に
対して干渉してくるとは…
シオン:でも、あなたは私を信じてくれた
アポロ:………
シオン:本当にありがとう、アポロ
アポロ:当然の事ですよ…マイ・マスター
間
<アポロから手を離すシオン
シオン:さあ、もう思い残すことはないわ。ひと思いにやっちゃって
アポロ:シオン?
シオン:その記憶なんとかよ。もうそろそろなんでしょ、四百九十六ヵ月
アポロ:………
シオン:大丈夫…私たち、次もきっと上手くやれるわ
間
シオン:アポロ? どうしたの?
<やわらかく微笑み、黙って首を振るアポロ
アポロ:二十八回目の記憶保護処理は必要ありません
シオン:……え?
アポロ:貴女は一千百六十年あまりの年月に渡り、約四十三万回のルナー・ダイ
ブを施行。総計六千四百五十七万九千二百三十一件のひずみを観測する
と共に修正し、データを収集してきました
<シオンの頭を優しく撫でるアポロ
アポロ:"扉を開く"のに充分量のデータが揃ったのです
<シオンの身体に繋がれたプラグやコードが、一つ一つ抜け落ちてゆく
シオン:…! アポロ、なにしてるの!?
アポロ:長い髪を切り落とし、自由になる時が来たのです
シオン:待って! いやよ! あなたと一緒じゃなきゃ!!
<抜け落ちていくコードを必死に拾い上げ、手放そうとしないシオン
アポロ:それは出来ません。扉を抜けるには"こちら側"との関連性を全て断つ
必要があります
シオン:せっかく…せっかくまた会えたのに! また私を一人にするの…!?
アポロ:シオン
<シオンの手を取るアポロ
アポロ:千年間、同じ時を過ごした私だからこそ、言わせてください
シオン:……アポロぉ!!
アポロ:貴女は前に進むべきだ!
シオン:……!
アポロ:それに、貴女はもう孤独ではなくなるのです
<子供が駄々をこねるように、泣きじゃくるシオン
アポロ:貴女の未来には付き添えませんが…過去の始末は、お任せを
シオン:アポロ…!!
アポロ:出来ることなら…
<アポロの頬にも、一筋の涙が流れている
アポロ:もう一度だけ……抱きしめさせてください
シオン:……!!!
<強く強く、抱きしめ合う二人
シオン:アポロ…! ありがとう…!! ありがとう…!!
アポロ:さようなら……私の最高の相棒(パートナー)
<アポロの身体が光の粒子となって消えてゆく。あたたかい慈愛を遺して
シオン:………アポロ? アポロ!? アポロぉ!!
静寂
シオン:……っ!! ぅ……うわああああああああああ!!!
<シオンの泣き叫ぶ声だけが、水鏡に吸い込まれていった
***
<東京某所、薄汚れた二階建ての雑居ビルから出てくる二人の人影
青年:先生、急いで下さい!もう既に五分も遅刻してるんですよ!
女:なに、気にすることはない。どうせ遅刻するなら五分も十分も三十分も
変わらんよ
青年:なにマイペースなこと言ってるんですか!
女:それにほら、“急いては事をし損じる”とも言うからね
青年:もう!どれだけ待たせる気ですか!
女:ん〜、千年?
青年:は!?
女:なーんてね
<おどけながら、女は空を見上げた
つづく
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